【追憶の名馬面】クロフネ

1639~1854年。

異国との貿易、人の移動などを禁じた、いわゆる鎖国令により、日本はおよそ200年間、世界から孤立した期間があった。封建体制を確固たるものにする為に発令されたこの政策は、国内の経済や庶民文化を保護し、それを更に向上させた反面、海外の情勢に関しては、皆ほぼ無知に等しいという危険な状況を生み出した。

頑なに内へ閉じこもる日本に対し、諸外国は幾度となく開国を迫ったが、時の幕府の姿勢は強固なもので、先に述べた通り200年間、それが叶うことはなかった。

しかし、平家物語にも記されているように、栄華というのは永遠に続くものではない。家康公が興した徳川幕府も、年を追うごとに求心力が低迷。そして1853年、あの事件が勃発する。

アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が、日本へ接近。彼らが乗る蒸気船は、世界から切り離されていた日本人を震撼させた。旗船サスケハナを先頭に、ミシシッピ、プリマス、サラトガとそれぞれに名前が付けられていたが、突如、洋上に現れた巨大な漆黒の船を、日本の人々は、十把一からげに、こう呼んだ。

黒船。

この黒船が浦賀に来航した事を契機に、日米和親条約が締結。ここから、それぞれの志しを持った若者達が争う幕末期が幕を開けることになる。

時はグンと流れ、2000年。徳川幕府同様、日本競馬界は時代の変換期に差し掛かっていた。

外国産馬へのクラシック競走開放。

内国産馬を保護する為、外国産馬に対して厳しい出走制限を設けていた日本競馬。しかし、サンデーサイレンス来日以降、飛躍的にレベルが向上し、世界トップクラスへ到達しようとしている日本に、世界は開かれた競馬施行を求めた。

世界だけではない。日々、競馬場で見守るファンも「真に強い馬同士の戦いを観たい」と望むようになっていた。攘夷と開国で真っ二つに分かれた幕末期とは違い、日本競馬の変換期は、新たな時代の到来を望む声が大半を占めていた、という事実は面白い。

その開国の使者として、やはりアメリカから再び黒船が来航した。狙う外国産馬初の日本ダービー制覇。

今回は、新しい時代の航路を先頭で進んだ芦毛のアメリカ産馬、クロフネの足跡を辿ってみよう。

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