【栄光の瞬間】1996年第57回菊花賞・闇を切り裂く閃光

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父サンデーサイレンス、母ダンシングキイ。

偉大な兄は、クラシックの舞台で、あのシャドーロールの怪物に果敢に挑み、華麗なる姉は、父に初めて樫のティアラをプレゼントした。

この名家の6男坊として1993年に生まれた彼は、その日から大いなる夢と期待を背負わされたサラブレッドだった。視線は早々とクラシックへ向く。一つ、いや二つ、いやいや三つ全て…。果たして、その頭上に戴く王冠はいくつになるだろうか?

しかし、人間の浮世も馬の浮世も思い描いた通り行かないものである。だからこそ愉快なのだけれど、違う場面を見せられるのは、やはりツライ…。耐久力皆無の私は、思い通りにいかないと、すぐに諦めクダを巻きやさぐれる。全く情けない…と我ながら思う。

彼の青春も、なかなか歯車が噛み合わない、苛立つものだった。一冠目の皐月賞は、熱発により舞台に立つことも叶わず、二冠目のダービーは、完全に勝った!と確信した瞬間、外から音速の末脚にやられクビ差2着。兄の無念を晴らすことは出来なかった。

良家のボンは案外モロい。と、ウインズでよく競馬を一緒に観戦する翁が、ある日ボヤいていた。翁曰く、「期待が重荷になって狂いが生じ、ボンクラに転落する」らしい。

産まれたその日から背負わされた期待。それが彼のエリート馬生を狂わせてしまったのだろうか?

三冠制覇という大きな夢は、最終話を迎えていた。

生涯一度しか挑むことが出来ないクラシックの舞台。最後の菊花賞を落とせば、手ぶらのままでオトナの馬の階段を登ることになる。別に手ぶらでもいいではないか、とボンクラの極みのような私は思うが、エリートの極みにいる彼は手ぶらでいることを許されない。

何としても菊の大輪を…。

悲壮感に似た願望を持って挑んだ第57回菊花賞。清々しい秋晴れの空の下に17頭の優駿達が集まった。このレースが終われば、同期達だけで走る時間は、もう訪れない。人間社会で例えるなら、卒業式のようなレースだが、馬社会の卒業式は、最も強い馬の称号を賭けた最後の戦いである。ここを勝てば、世代最強の馬という称号を引っ提げ次の舞台へ進める。ゲートインした全ての馬達が、それを目指して静かに闘志を燃やした。

真正面から秋陽を浴びた、血気盛んな野郎共が一斉に馬場へ飛び出す。

熊沢重文のナムライナズマが大きく出遅れた。逃げ宣言をしていたこの馬が出遅れたことにより、レース前に脳内で練られた12万通りの展開シミュレーションは早くも完全に崩壊する。

主導権争いは松永幹夫のダイワセキト、横山典弘のサクラケイザンオー、角田晃一のロングカイウンがやり合った。1周目の下り坂、3頭がやや抑え気味に下っている時、その中をついて深いブリンカーを装着したローゼンカバリーが、柴田善臣に導かれ一気にハナを奪い取った。グッと首を下げローゼンが先頭に立つと先の3頭は控えてその後ろに取り付き流れは落ち着いた。

一方、菊の大輪を渇望する彼は大外枠から飛び出し、最初のホームストレッチまでに最内へ潜り込んだ。仮柵が外され内側にはグリーンベルトが出来ていた。ロスなく馬場の良いところを進ませる。彼と共にダービーで悔し涙を飲んだ武豊は、包まれて動けなくなるかもしれないというリスク覚悟で、この場所をキープした。

ローゼンカバリーを先頭に一団で進む17頭。レースが動き始めたのは2周目のバックストレッチ。奇跡のダービー馬フサイチコンコルドと藤田伸二がジワジワと浮上を開始すると、それまで凪だった淀のターフに風が吹き始める。

コンコルドの進軍を見た武は、まるで影のように鞍下の相棒を同じ分だけ進ませた。斜め前の外側には岡部幸雄とロイヤルタッチ。名手岡部は、真横に桃色の帽子が来たのを見てロイヤルタッチに軽い合図を送った。

2周目の坂を下る。外側にいたロイヤルタッチが切り込み内側に渋滞が生じた。その渋滞の渦中に武と彼は巻き込まれてしまう。前半レースを引っ張ったダイワセキトが、彼らの前にズルズルと後退してきた。万事休すか…。栄冠、期待、夢。全てが、眩い神無月の光の中に消えてゆく。

直線。上手く内を突いたフサイチコンコルドに、終始、前で頑張ったサクラケイザンオーが抵抗する。それを目掛けて岡部とロイヤルタッチ。やり合う2頭からワンテンポ遅らせて、名手はスパートした。長距離は騎手で買え、という古の格言が実現しようとしたその時。

フサイチ、サクラ、ロイヤルの外に強烈な閃光が走った。

天才が右鞭をしなやかに入れると、その馬は異次元の末脚を繰り出し、あっという間に全てを差し切り、トップでウイニングポストを通過した。

大レースを勝ってもクールなガッツポーズしか見せない武が、何度も何度も大きなガッツポーズを繰り返し、喜びを爆発させた。

残り200m。その馬は、自身を包んでいた闇を、自らの走りで切り裂いた。

ダンスインザダーク。

悩めるエリートホースが最後に見た世界は、前方に誰もいない眩しい世界だった。

2016年世代の最も強い馬に君臨するのは果たして誰か?

第77回菊花賞を楽しみましょう!