シャドーロールを鼻上に装着した怪物が、クラシックロードを席巻した1994年。この年の暮れ、また新たな可能性を秘めた怪物が、靄に包まれた中山に現れた。
漆黒の馬体に星一つ額に戴いたその馬が2歳王者に君臨したことにより、日本競馬界にサンデーサイレンスの風が吹き始めた。
翌年、2年連続で三冠馬誕生の夢を背負わされた黒い馬は始動戦の弥生賞を快勝する。しかし、彼はクラシックの舞台に立つことなくターフを去った。
彼が去った95年春の牡馬クラシック戦線は、暮れに吹いたサンデーの風が暴風に進化し、その血を受け継いだ優駿達により席巻された。
もしも、屈腱炎さえ患わなければ…。
吹き荒れるサンデー旋風を見た人々は、それぞれ"if"を想起し、彼の競走馬生活を破綻させた、屈腱炎を怨んだ。
そして、彼に対しては「幻の三冠馬」という愛称を与え、その姿を記憶に刻す事を誓い合った。
幻というものは、実現せず目に見えないモノ。故に、無限大の自由が存在する。どの様に想像しても全て正解で、誰にも批判されない。
ウマキチと呼ばれる人々が勝手気儘、縦横無尽に作り出したマボロシにより、ジャングルポケットが覆い尽くされたのは20世紀末の2000年だった。
父はサンデーサイレンスと並ぶ大種牡馬トニービン。母のダンスチャーマーは未出走馬だったが、血筋を繙くと、スターロッチ一族、シンボリルドルフ、海の向こうでは、セントサイモンやウォーアドミラルらを世に送り出した、いわゆる11号族の牝系を受け継ぐ良血馬だった。
どこからどの様に見てもピカピカの優駿がマボロシを背負わされた理由。それは、彼を世話するホースマン達が、あの黒い馬と同じだったことに起因している。
馬主、調教師、厩務員、主戦騎手、全てが同じ。ジャングルポケットを見たファンは、無念の涙を流した、アイツの仇を討ってくれ。という願いを授けた。
しかし、ジャングルポケットはジャングルポケットである。自身が、まだこの世に産まれるかどうかも分からない時分に走っていた馬のことなんて知ったことではない。それでも、超ロマンチストなウマキチという人種は、ジャングルポケットが幻を晴らす。と、やはり勝手気儘に言い合った。
全体、それは誰なのだろう?
自分を見るたびに、幻、マボロシと叫ぶ人々の事を、ジャングルポケットは疑問に思っていたと思う。
…俺は、そんな名前じゃない。
馬とて、我々と同じ浮世に暮らす動物である。ならば、彼らにも自我という概念が存在しても、不思議なことではないだろう。
俺は、ジャングルポケットだ!
勝手な幻を背負わされたジャングル少年は、その存在を確立するためにターフへ飛び出した。
2000年
札幌で初勝利を挙げ、勢いそのまま、札幌3歳Sを制し、早々と重賞のタイトルを手にする。しかし、その大器の片鱗振りが、余計に人々の幻想を掻き立てていった。
この馬は間違いなく、クラシックに主役として挑むだろう。ようやくあの馬の…。
私も、ジャングルポケットに対して、あの馬の姿を重ねた一人である。ただ、今思い返せば、少し可哀想なことをした。
精一杯走って、重賞を勝ったのにジャングルを祝わなかった。彼に対して失礼極まりない行為をやらかしてしまった事は、15年経った今、深く反省する次第である。
馬場で競い合うライバルにプラス、知らねえ馬の幻と戦うジャングルポケットの前に、バケモノみたいな同胞が現れたのは、その年の暮れだった。
第17回ラジオたんぱ杯3歳S。ジャングルは、北のヤングチャンピオンとしてこの出世レースに挑んだ。しかし、前方を逞しく進軍していた白い蒸気船は交わしたものの、黄金の光速粒子は影すら踏めず2着に敗れた。
全く歯が立たなかったが、それでも逸材という評価には変わりなく、来る21世紀のクラシック戦線の主役として名を連ねたまま、彼は多感な青春時代へ突入した。
年と世紀が変わった2001年。
ジャングルポケットは、ダービーが行われる府中の重賞、共同通信杯から始動した。
このレースの直線で見せた、彼の走りは忘れられない。先に抜け出したエイシンスペンサーらを、大外から荒々しく捕らえ、独走劇を演じた。普通に評価すれば強い勝ち方となる走りっぷりだったが、彼は何故かスタンドの方角へ顔を向け走っていた。その姿はまるで我々ウマキチに何かを叫んでいる様な姿だった。
オイ!お前ら!よく覚えておけ。俺はジャングルポケットだ!
クラシックシーズンが近づくに連れヒートアップする「幻が晴れるか否か?」の議論を、彼自身が一喝し、勇躍、皐月の舞台へ乗り込んだ。
2001年4月15日、第61回皐月賞。
府中で荒ぶる強さを披露したジャングルポケットも、この舞台ではサブキャラの扱いを受けた。主役は、前年暮れの仁川で、異次元の強さを見せつけたアグネスタキオン。極悪の馬場で行われた、弥生賞を楽勝し、ここへ臨んで来た光速粒子は、歴代2位となる59.4%の単勝支持率を背に、堂々主役として中山のターフに立った。
ロマンチストで気の移ろいが激しいウマキチは、この時、ジャングルポケットを包んだ幻の事を忘れ"アグネスタキオンが三冠馬になる"という別の幻に熱い視線を注いでいた。
ゲートが開く。と、同時に一頭、落馬寸前のスタートを切った馬がいた。
最内枠にいたジャングルポケットだ。鞍上の角田晃一が、真っ逆さまに馬場へ叩きつけられる寸前の発馬をやらかした。彼の皐月賞はこの時半分終わってしまった。やや折り合いを欠きながら中団後方を進み、4角大外まくりという豪快な戦法で、早々と抜け出そうとする光速の粒子に迫ったが、及ばず3着。敗れはしたものの、追い上げてくる時の脚は、強さを十二分に感じさせるものだった。しかし、懸命に追い上げた彼のことを、気にかける者は少なかった。
アグネスタキオンまず一冠!
公正、公平に事実を伝えなくてはならない媒体までもが、まだ欠片しか見えていないタキオンの三冠物語の虜になっていた。その位、アグネスタキオンという駿馬は、魅力に富んでいたのだ。
21世紀の日本競馬界に、初めて幻が生まれたのは、ダービーを間近に控えた、5月2日のことだった。
アグネスタキオン故障。ダービー断念。
あの馬と同じく、屈腱炎のクソ野郎は、タキオンにも牙を剥いた。結局これが原因となり、黄金色の光速粒子は、大きな、途轍もなく大きな可能性を秘めたまま、ターフに別れを告げた。
絶対的な主役が消えた68回目のダービーは、一気に群雄割拠の様相を呈し始める。
白羽の矢を立てられたのは、ジャングルポケットだった。しかし、この時、例の幻を重ねられたロマン的観点からではなく、父トニービンの府中適性と自身の能力を買われて。という、何とも現実的な観点からの支持だった。
ダービーの日。デビュー来から自身を覆っていた幻が消え失せた。ここを勝てば、68代目のダービー馬として、その名は確実に残る…。
曇り空の下、21世紀最初のダービーのゲートが開いた。
ハナを叩いたのは、テイエムサウスポーと和田竜二。1~2角までに番手以降を引き離し、彼らは大逃げの策に打って出た。人気どころのジャングルポケット、クロフネ、ダンツフレームは、1000m通過が58.4秒というハイペースに動じることなく、中団で脚を溜めた。
気風の良い大逃げを披露したテイエムサウスポーが直線入り口で脱落すると、抜け出してきたのはもう一頭の外国産馬ルゼルと後藤浩輝。更に外から江田照男鞍上の11番人気馬ダンシングカラーも良い伸び脚を繰り出す。
3強は揃って大外へ進路を取った。先に抜け出そうとしたのはクロフネと武豊。しかし、前走のマイルカップで見せた豪脚は鳴りを潜め、伸び脚は無かった。その外から、舌をグルングルンと回しやって来たのはジャングルポケット。角田晃一の檄に応え、荒々しく府中の坂を駆け上った。
懸命に追う角田。後ろからは河内に乗り替わったダンツフレームがジワリ、ジワリと差を詰めてくる。しかし、全てを振り払わんとする男達は誰も寄せ付けなかった。
マル外開放元年、新時代のダービーを制したジャングルポケットと角田晃一。
勝者のみに許される逆回りの並み足で、彼らは再びスタンド前に現れた。ゴール板付近に差し掛かった時、なりたてホヤホヤのダービー馬が突如雄叫びを上げた。
勝ったのは俺だ!フジキセキじゃない!!
ジャングルポケット、そしてフジキセキのオーナーだった齊藤四方司が、顔をくしゃくしゃにして角田と握手を交わす。そして同じく、両馬を育て上げた調教師で、角田にとって師匠にあたる渡辺栄とは、やや照れ臭そうに互いを讃えあった。いつの時も同じ、ダービー特有の歓喜の瞬間が緑の芝生の上で繰り広げられ、21世紀初の祭典は無事に幕を閉じた。
ダービー馬というタイトルを獲得したジャングルポケットは、古馬の重賞札幌記念に挑んだ。初勝利と初重賞制覇を遂げた北の大地に凱旋した彼を、ファンは1番人気に支持した。
しかし結果は、蛯名正義を背にした同い年のエアエミネムに及ばず3着。故郷に錦を飾ることが出来なかったジャングルは、秋のトライアル戦を使わず、ぶっつけ本番で最後の一冠菊花賞に出走する。異例のローテーションだが彼はダービー馬。ローテなんぞでゴチャゴチャ言う馬ではないと信じたファンは、やはりジャングルポケットを1番人気に支持した。
マイネルデスポットと太宰啓介が、一世一代の大逃げを打った。淀の菊舞台で逃げ戦法を取ってきた彼らを見て、そう言えばスティールキャストなんていう馬がいたな…と、私は思い出していた。しかし、スティールとは違い、デスポット太宰の脚は、4角を回っても衰えない。
お。太宰やりやがったな!
味のある騎手が日向へ出ようとした時、外からサンデーサイレンスと瓜二つの駿馬が、その光景を屠った。
最後に現れた最強の男、マンハッタンカフェと蛯名正義が、史上最もハイレベルと評された2001年クラシック戦線を締め、彼らの青春時代は幕を閉じた。
一方、この物語の主人公であるダービー馬は、直線では追い上げるシーンを見せてくれたが、前半で折り合いを欠いたツケが回って、伸び脚が鈍り4着。
ゆっくり走って、最後に暴走しよう。菊花賞。という、交通安全運動の標語的な走りを、暴れん坊の彼は、遂行することが出来なかった。
クラシック戦線を走り終えたジャングルポケットの背中から、角田晃一が降りたのは、この菊花賞の後だった。それは、フジキセキの幻想が完全に晴れた。ということになるが、何故か一抹の寂しさも漂っていた。
11月25日。
晩秋の府中で開催される世界戦、第21回ジャパンカップに彼は挑んだ。古馬とは対戦済みとはいえ今回はGⅠ。雲の上にいる様な先達が相手である。中でも、年間無敗、GⅠ5勝を含む重賞8連勝という奇天烈な記録を打ち立てた王者テイエムオペラオーが血気盛んな彼の前に立ちはだかった。
角田に代わって手綱を握るのはフランスの名手オリビエ・ペリエ。日本でもお馴染みのトップジョッキーを背に、ジャングルポケットは世界チャンピオンを目指して馬場へ飛び出した。
ティンボロア、ウィズアンティシペイションの海外馬2騎がレースを引っ張る展開。オリビエは、内側の絶好位に陣取り進むオペラオーの背後に、ジャングルポケットを誘導した。
このまま静かに進み、終いの決め手勝負になる。と予想された流れは、向こう正面で様相が一転した。黄色いシャドーロールがトレードマークだったトゥザヴィクトリー。馬乗りの天才、四位洋文の意表を突いた浮上で、何かが起こる予感が晩秋の府中に漂い始めた。
直線に入る。馬場の真ん中を、王者が堂々と抜け出す。坂を登る頃、番手以降を完全に振り払い、ルドルフ越えの快挙がハッキリと現実として見えた。
その時。オリビエの右腕が天高く掲げられた。一発、二発と荒々しい鞭が入れられるたびに、鞍下の荒々しいダービー馬は、グングンと伸びる。
坂を登り、二頭が抜け出した。一頭分、間を開けて競り合う両者。若手の和田がガムシャラに追えば、オリビエはまた鞭を入れる。鼻面を合わせてゴールへ流れ込む、と思われたが、勝敗はアッサリと決した。
ガリガリ君とカレーうどんが好きなフランス人、オリビエ・ペリエが、ド派手な喜びのアクションを見せる。
再び府中の2400mで栄光を掴んだジャングルポケット。あの日と同じ様に、逆回りの並足で、ファンの待つスタンド前へ戻って来たが、叫びは無かった。その姿は、勝って当然。という自信に満ち溢れた王者らしい姿だった。
オペラオー撃破。世代交代の導火線に火を点けたジャングルポケットは、2001年の年度代表馬に選出され、時代のトップに君臨した。
明けて2002年。
大目標をフランスの凱旋門賞に定めた、ジャングルポケット一行は、武豊とコンビを組むことになった。ところが、始動戦と予定していた阪神大賞典の直前、武が落馬事故により重症を負うアクシデントが発生。陣営はオリビエと同じく、当時、短期免許で来日していたミルコ・デムーロに、ジャングルを託すことにしたが、今度はミルコが騎乗停止処分を受ける。
いくら年度代表馬でも、裸馬では競馬に挑めない。菊花賞まで主戦を務めた角田の再登板も囁かれたが、結局、兵庫県競馬の生き神様、小牧太が手綱を取り、阪神大賞典に挑むことになった。
私は、もしかすると角田が乗るのでは?と思っていた。しかし、兵庫に暮らす者としては、小牧がダービー馬に騎乗する。という、赤飯でも炊きたくなる様な嬉しい状況だったので、当時はガキながら複雑な心境で、この阪神大賞典を見ていたことを覚えている。
敵は、90年代最後の菊花賞馬、ナリタトップロードただ一頭、と定め、徹底的なマーク戦法を敢行した。しかし、3歳時から自身を負かし続けていたライバルが去り、再びの栄光を目指さんとする、トップロードの影すら踏めず、2着に敗れた。
翌週行われた日経賞では、同期のマンハッタンカフェも大敗を喫した。
自身が火を点け、良きライバルが、暮れの中山で燃え上がらせた世代交代の焔は、小さな灯火程度だったのだろうか?
何となく歯車が噛み合わない状況の中、医学の常識を超えて、競馬場に戻ってきた武豊を背に、第125回天皇賞春へ挑んだ。外から強烈な伸び脚を繰り出すも、マンハッタンカフェを捕らえきれず2着。あの焔は、やはり煌々と燃え盛るものだった。ということを証明出来たが、彼に勝ち星がもたらされた訳ではなかった。
しかし、トップレベルの力は示せた。この無念は、イギリス、或いはフランスで晴らす。と、前を目指し進もうとした時、彼の身体が悲鳴を上げた。
宝塚記念を目指し調整中に、脚部不安を発症。春のグランプリ、そして海外挑戦も泡沫の彼方へ消えていった。
療養し、秋。
復帰戦となったここより、オーナーの名義が齊藤から吉田勝己に変わった。かつてフジキセキの幻想を重ねられた、緑、黄縦縞、黒袖黄一本輪の勝負服を脱いだジャングルポケット。私は、衣替えした彼を見て、無性に寂しくなったことを覚えている。ノーザンの勝負服でもジャングルポケットに変わりはないのだけれど、何故か全く別の馬に見えて仕方がなかった。
また、この年の秋は府中が改装工事により使用できなかった為、天皇賞秋もジャパンカップも中山で施行された。府中を得意としていた彼にとってこの工事は不運だったと思う。
もしも通常通り府中開催ならジャパンカップを連覇していたかも知れない。
ジャパンカップ5着、有馬記念は3コーナーから捲って行ったが、直線は伸びず7着に敗れた。
レース後、再び腰部に筋肉痛、更に左前脚の蹄球炎にも見舞われたジャングルポケットは、2003年1月に引退を表明した。
同月、京都競馬場にて彼の引退式が執り行われた。ターフに立つ最後の日、彼を待っていたのは齊藤の勝負服を纏った角田晃一だった。
齊藤四方司、渡辺栄、星野幸雄、角田晃一。ダービーで、共に歓喜の瞬間を味わった男達に囲まれ、ジャングルポケットは、北の大地へ旅立って行った。
父になった彼は、実にバラエティ豊富な子供達を、私達の前へ送り込んできた。ズドンと太く逞しい流星を持ったオウケンブルースリ、青いブリンカーを纏ったジャガーメイルといった息子達は、長距離路線で活躍。
アヴェンチュラとトールポピーは、父に牝馬クラシックのティアラを贈った。
更にジャングルポケットの荒々しい血は、南半球まで流れ、ジャングルロケットというニュージーランド産馬が、自国の重賞レースを制し、父の名を世界中へ知らしめた。
ダービーの日、観衆の前で彼は叫んだ。
俺はジャングルポケットだ!!
それは幻でも夢でもない。現実の世界で示したものである。ならば、その名を、現実として永遠に憶えておいてやろう。
君はジャングルポケットだ。フジキセキじゃない。