※馬齢表記は、現行の表記を使用しています。
「友情、愛情、ケイバ場!」とキャッチコピーを銘打ち、開幕した2017年の中央競馬。若者達が、思い思いの過ごし方で競馬を楽しむフレッシュなイメージ像を見て、自ら好んで逸れた道を驀進する私は、例の如く捻くれてしまった。
このキャンペーン戦略の様に、かつてアングラな娯楽だった競馬は、平成になってガラリと様相が変わった。オグリさんと若き日の武豊がその幕を開けて以降、競馬場に溢れる声は濁声から黄色い声援に変化し、「誰でも気兼ねなく楽しめる娯楽」という大衆レジャーの地位を確立している。
しかし、そんな新しい時代が到来した平成の競馬に、唯一、欠けていたピースがあった。
三冠馬
1941年、セントライトから始まり、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフと、昭和期には4頭の三冠馬が誕生している。私は、当時、この世に生まれるかどうか分からない身分だったので、あくまでも空想だが、この4頭の周りにはアングラな雰囲気はなかったと思う。つまり、今と同じ、万人が一頭の優駿に歓声を送る光景が昭和期にもあった。と考える。
オグリさんとユタカくん、マックやテイオーが精一杯盛り上げても、三冠馬が存在する。という狂乱は無い。皐月賞、ダービー、菊花賞。この3つのレースを、誰も敵わない強さで制覇する駿馬が出なければ、前時代の人々には認められないのだ。
そんな、完全に時代を変えよう。と躍起になって頑張る平成の日本競馬界に1994年、一頭の怪物が現れた。
ナリタブライアン。
如何にも牡馬らしい雄大な黒鹿毛の馬体を有していたにもかかわらず、鼻上にシャドーロールを装着していたブライアン。今日は彼の足跡を辿ってみたい。
1991年5月3日。新冠で誕生したナリタブライアンの父は、平成の御三家スタリオンの一頭だったブライアンズタイム。母パシフィカスは、あのE.Pテイラーが生産したサラブレッド。という由緒ある名家の娘だった。彼女はブライアンを出産する前年にイギリスで身籠ったシャルードの子を日本で出産している。芦毛の顔が大きな牡馬だった。
ナリタの屋号と父の名を貰い、1993年、夏の函館競馬でデビュー。初陣は2着に敗れたが、折り返しの新馬戦で2着のジンライン以下を9馬身差突き放して初勝利。しかし、初の重賞チャレンジとなった函館2歳Sは6着、秋の福島で行われた、きんもくせい特別で2勝目を挙げたが、重賞のデイリー杯2歳では2着。と、評価に悩むような戦績を重ねた。
ここまで見ると、この馬が三冠馬になるとは思えない。しかし、ブライアンの名は歴史に深く刻まれている。悩めるナリタブライアンの姿を更に追って行こう。
ウマという生き物は、種の歴史が始まって以来、臆病な動物とされてきた。気を抜けば肉食獣に食い殺される恐怖と格闘し続けたウマの歴史はナリタブライアンにも受け継がれていた。そう、彼は自分の影に怯える臆病な少年だったのだ。他の馬では無く自分に怯える。という部分は、後付けになるが、如何にもナリタブライアンらしいと思う。
デイリー杯の次に出走したOP特別の京都2歳Sで、陣営はブライアンの鼻上にシャドーロールという補正馬具を装着した。影が怖い、と怯えるサラブレッド達を救済するこのアイテムを手に入れたブライアンは、遂にその怪物っぷりを披露し始める。
中団待機から4角大外捲りをカマして直線へ。手綱を握る南井のアクションに鋭く反応し、先に抜け出したテイエムイナズマをあっという間に交わし去った。その走りは、荒野でか弱いシカを追い回す猛獣の様なものだった。
明らかに馬が変わったこの日、1993年11月21日。ついに怪物、ナリタブライアン劇場の幕が開いた。
臆病な少年から怪物少年へと進化しつつあるナリタブライアンは、第45回朝日杯FSに挑んだ。前年、白い兄貴が涙を飲んだ舞台。果たして、弟はどうか?
タイキウルフとサクラエイコウオーが、一進一退の主導権争いを演じだが、ナリタブライアンは我関せず。前走と同じく、マイペースに中団から進んだ。
タイキにサクラ、そこへ更にエイシンワシントン、ボディーガードが絡んで激戦の様相を呈し始めた4コーナー。大外からシャドーロールを装着した猛獣が牙を剥く。
岡部の檄に応え、タイキウルフが先頭に立ったが、それは一瞬だった。桁違いの瞬発力を発揮し、並ぶ間も与えず先頭に立ったブライアンは、一気に坂を駆け上り後続をちぎり捨てた。着差は3馬身半。文句無しの完勝で兄の無念を晴らし、2歳王者に君臨したのだった。
最優秀2歳馬に選出されたナリタブライアンは明けて1994年、共同通信杯から頂点を目指す戦いを開始した。降雪の影響で月曜日に振り替えられたが、微塵の影響も感じさせず、事も無げに勝利。府中で競馬界を見守るトキノミノル氏も、トンデモナイ駿馬の出現に、さぞ喜んだことだろう。続く皐月賞トライアルのスプリングSも制し、万全の体制で主役としてクラシックの舞台へ立った。
4月17日、第54回皐月賞。
最も速い馬が勝つ。と言われる一冠目に挑むブライアンを、ファンは1.6倍の支持で迎え入れた。手綱を握る南井克巳は当日このレースのみの騎乗。一鞍入魂のファイターを背に、皐月の舞台へ飛び出した。
内からメルシーステージがハナを奪おうとしたが、サクラエイコウオーがそれを許さなかった。ピンクのメンコ鮮やかに、サクラの逃走劇で進む皐月賞。1枠1番、最内枠から飛び出したブライアンは例によって中団待機。南井の手が動き始めたのは、向こう正面の中間地点前。この合図を機敏に受け取った鞍下の相棒は、最内をスルスルと進み、3角前で早くも3番手に浮上した。
1000mを58.8秒で通過し、軽快に逃げるエイコウオーの真後ろ。さぁ、どうやって抜け出すか?先頭はサクラ、メルシー、アイネスサウザーの3頭。ブライアンの隣には、ドラゴンゼアーがいた。普通に行けば、内で包まれて万事休すの並びである。しかし、彼は怪物。ここで例の瞬発力を発揮し、一瞬でドラゴンの前へ出た。ポッカリ空いた隣。南井はその隙を見逃さず、上手く外目へ持ち出した。
直線に入る。解放されたブライアンに、もう敵はいなかった。先行勢を丸呑みし、猛スピードで中山の直線コースを駆け抜ける。皆様ご存知の通り、中山の直線には急坂が設置されている。しかし、どうやら、1994年の4月17日は、その坂が存在しなかったようだ。恐怖すら覚える圧倒的な脚力・・・。お馬さんは優しい動物のはずなんだけどなぁ。
ただ勝っただけではなく、1:59.0というレコードタイムを叩き出しての勝利。最も速い馬だったことを証明し、ブライアン一行は競馬の祭典へ進む。
5月29日、第61回東京優駿。
もう誰も疑うものはいない。単勝1.2倍という、カチンコチンの鉄板になったナリタブライアンが、どの様な勝ち方を見せるのか?観衆の興味は、その一点に注がれた。
ノーザンポラリスが立ち上がった瞬間、ゲートが開いた。ややバラついた発馬を決め、選ばれし18頭の駿馬達が、馬場へ飛び出す。皐月と同じく、エイコウオーが逃げる構えを見せていたが、小島は控えて、メルシーステージと河北にハナを譲った。ところが、2角を抜ける直前に、外からアイネスサウザーが急加速し、ハナを奪い取った。のっけから出入りの激しい展開が、前方で繰り広げられる中、ナリタブライアンは、やはりマイペース。皐月の時とは違い、余裕がある追走で、いつでもやってやるよ。という雰囲気を醸し出していた。
内に入れることもなく、出たなりの位置を、マイペースに走り欅前を通過。ここで、優しいお馬さんから、おっかない猛獣へと変化する。別次元の手応えで、先行馬達に襲い掛かり、直線へ。南井が選んだ進路は、馬場のど真ん中だった。内では、フジノマッケンオー、或いはエアダブリンが脚を伸ばしていたが、俺が主役!と胸を張るブライアンの相手ではなかった。残り100m前で勝負アリ。ここからウイニングポストまでは、南井とナリタブライアンの為だけのステージだった。
南井が右手を高らかに挙げる。彼がよく装着していた透明の騎乗ゴーグルの奥にある瞳は、嬉しさでキラキラと輝いていた。一方、61代目のダービー馬に君臨した黒鹿毛の馬は、まだ走り足らない。とばかりに、スピードを緩めず、2回目の2角を曲がろうとしていた。2着のエアダブリンに付けた着差は5馬身。この時期のブライアンは、レースを重ねるごとに、急激な進化を遂げていた。
大魔王、重戦車、怪物、サラブレッドじゃない生き物…。この大舞台で強さを見せつけたナリタブライアンに対し、無数の形容詞が溢れた。中でも私は、重戦車という言葉が好きだ。府中の芝を、根刮ぎ抉り取る様な力強い走りは、荒地を勇ましく進む戦車の様で、このフレーズがピタリと当てはまっていると思う。このダービーは、今でも平成のダービーの中で、一番好きなレース。もっと早よ、生まれて、馬券握りながら見たかった…。
テイオーとブルボンに次ぐ、平成の二冠馬となって迎えた秋競馬。京都新聞杯から菊花賞のローテーションを組み、ナリタブライアンが競馬場に帰って来た。
三冠馬の誕生に期待を高めるファンの悲鳴が轟いたのは、10月16日の仁川。その京都新聞杯のレース後だった。
ナリタブライアン敗れる。
内から伸びてきた夏の上がり馬スターマンに競り負け、デイリー杯以来の黒星を喫してしまった。テイオーは骨折、ブルボンは黒い刺客にやられたという歴史が重くのしかかる。
ひょっとしたらなれないかも?
三冠馬という頂きの高貴さが、ここへ来て威厳を振るい始め、若干の不安を感じながら、菊花賞の時を迎えた。
11月6日、第55回菊花賞。
泣こうが喚こうが、クラシック競走は生涯一度きり。夢は終わるか、それとも叶うか?雨空の下に、スタートを告げる金属音が鳴り響いた。
主導権を握ったのはスティールキャストと角田。番手にウインドフィールズと東が続く流れで1周目の坂を下る。ナリタブライアンはヤシマソブリンと坂井を見ながら中団馬群の番手、という絶好位に付けた。このまま静かに流れていくと思われた菊舞台。ここで当時、まだ若手だった角田が思い切った競馬をする。
2周目2角までに、後続との差を広げ、大逃げの戦法に持ち込んだのだ。菊のストーリーテラー、杉本清が、彼の母で1980年の第82回天皇賞秋を大逃げで制した、プリティキャストの名を叫び、その大逃げっぷりをマイクロフォン越しに伝えた。長距離戦で、人気薄の大逃げ馬ほど仕事をする馬はいない。もしや、もしやと様々な疑念が湧き上がり、スタンドからは響めきが起こった。
2周目の坂を下っても依然先頭はスティールキャスト。リードはまだタップリある。騒めくスタンドの声が、大歓声に変わったのは植え込みを回る直前だった。ご自慢の白いシャドーロールを、泥で真っ黒にしたナリタブライアンが、マイポジションの大外から進撃を開始。先に抜けたのはヤシマソブリン。ウインドフィールズがそれに続いて、抜け出そうとした時、赤い帽子、桃、紫山形一文字の勝負服、“黒い”シャドーロールが、彼らを捕らえた。
杉本が叫ぶ。
弟は大丈夫だ!弟は大丈夫だ!
この菊花賞の1週間前に行われた天皇賞秋で、ブライアンの兄、ビワハヤヒデは屈腱炎を発症し、ターフを去っていた。ビワハヤヒデが勝った宝塚記念で、兄貴も強い!という実況をしていた彼は、パシフィカス兄弟の対決を誰よりも待ち望み、その実況をしたかった。と語っている。
兄も愛した名実況アナの叫び、スタンドを埋め尽くしたファンの声援に押されたナリタブライアンは、7馬身差を付けて、菊の大輪を頭上に戴いた。
1994年11月6日、15時38分。シンボリルドルフ以来、10年振り。日本競馬界に5代目の三冠馬が誕生した。
随分、昔の記憶なので、定かではないが、ナリタブライアン引退後、刊行された彼の功績をまとめた雑誌に、馬産地ライターの村本浩平氏が、一つの言葉を贈っていた。
僕らの時代の三冠馬。
僕らという短いフレーズは、完全なる大衆レジャーへと進化した平成の競馬像を見事に表現していると思う。オーナー、生産者、調教師、厩務員、騎手、そしてファンの存在が盛り込まれたこの言葉が私は好きだ。氏に許可を得た訳ではないが、今でも競馬を知り始めた方に、ナリタブライアンを教えてあげる時、この言葉を使わせていただく時がある。
1984年、無敗で三冠馬に君臨したシンボリルドルフと違い、少々、戦績に傷はあるが、そんなモノの存在など関係ない。という強さに溢れていたナリタブライアンは、暮れのグランプリに挑んだ。もちろんファン投票は一位で選出。ほんの一年前、臆病な少年だった馬が、時代の顔に成り上がる。この様な劇的なドラマが見られるから、例え馬券で、スカンピンになっても競馬は辞められない。
同い年の強すぎる少女から、ブルボンの夢を屠ったスナイパーといった手練れの古馬陣との戦い。ここを勝てば日本の競馬界を手中に収められる。
トップスタートを決めたのはブライアンだった。しかし、どけ!小童めが!と内から押して、ツインターボがハナに立つ。人々に愛されたターボエンジンを搭載した彼は、グングン加速し、番手以下を引き離した。1周目のホームストレッチから2周目の3~4角まで、グランプリの舞台は、この大逃げ馬のモノだった。
ブライアンは3, 4番手。好位に付けていたが背後には同い年の強過ぎた少女、ヒシアマゾン。そして右隣には、こちらも怖い、マークした獲物は絶対逃さない黒いスナイパー、ライスシャワーと的場が、影の様に寄り添っていた。タイミングをミスれば、この2頭にやられる。前はターボの男が、マイペースに逃げている。…私がジョッキーなら、慌てふためき、何も出来ないと思う。
南井には寸分の焦りも無かった。相棒の力を信じジッと機を狙う。俺は俺を見せられた!とターボの男が後退した時、ブライアンは一気に先頭へ浮上した。ヒシアマゾンとサクラチトセオーが外、内からネーハイシーザーが、抜け出しにかかるブライアンを目掛けて襲い掛かる。
しかし、直線。堂々と抜け出したナリタブライアンに付いて行ける馬は居なかった。先の3頭の後ろから、ブライアンの首を狙ったライスシャワーも、追いつくことは出来なかった。
3歳四冠。それも全て圧倒的な強さで制し、1994年を締めた。
もう誰もナリタブライアンには敵わない。ファンは、シャドーロールを装着した最強馬に様々な夢を託したことだろう。そして、それが全て叶う。と、信じて疑わなかった。もしも、私が当時、競馬場にいたならば、ブライアンに世界制覇の夢を託していたと思う。アメリカ、イギリス、フランスの優駿が束になってもブライアンには絶対に敵わない。誰でもかかって来ればいい。と、相変わらず酩酊しながら、勝手に放言していただろう。
1994年の年度代表馬、最優秀3歳牡馬の勲章を授与されたナリタブライアンは、京都の阪神大賞典に姿を現した。持ったままでアッサリ7馬身差つけたその勝ち方は、菊花賞で見せた走りを何百倍も強くした圧巻の走りだった。
全体、どこまで強くなるのか?
前年、思い描いた夢に、鮮やかな色彩が帯び始めた時、ナリタブライアンは悲鳴をあげた。
右股関節炎。全治2カ月の診断が下り春シーズンは休養となった。この怪我がまさか栄光からの転落をもたらすとは誰も思わなかっただろう…。
怪我を癒し、迎えた秋競馬。ナリタブライアンは、第112回天皇賞(秋)で復帰した。しかし、体調面や調整の過程が不安視され、決して万全の体制という訳ではなかった。その不安にプラス、四冠ロードを共に歩んだ南井克巳が負傷し、東のベテラン的場均に乗り替わりというアクシデントまで重なった。
それでもナリタブライアンである。こんな不安は、全く杞憂なものだった。とレース後、言えることを信じて、やはりファンは彼を一番人気に支持した。
しかし、あの強すぎたブライアンの姿は、そこには無かった。勝負所で肉食獣の様に、他馬に襲いかかる迫力も、芝生を根刮ぎ抉り取る、あの末脚も…。12着。デビュー以来、最低の着順に終わった。
休み明けを叩いて2戦目は、第15回ジャパンカップ。よく言われる一般論だと、状態は確実に上向く。とされている状況で、彼は世界戦に挑んだ。鞍上が的場から武豊に替わったことも、再びの栄光へ向かって背中を押す要素に加えられた。
だが、結果は6着。天皇賞と比較すれば良くなったと見ることも出来るが、真のナリタブライアンではないということは、誰が見ても明らかだった。
ナリタブライアンがナリタブライアンで無くなった。
今、目の前を走る馬は、ブライアンのイミテーションで、ホンモノはまだ休養している。あり得ない空想をしたくなるくらい、ナリタブライアンは変わってしまっていた。
12月24日。深い傷を負い、ボロボロになったブライアンは、第40回有馬記念に挑む。前年、日本競馬を支配し、世界を夢見たグランプリの舞台に、再び立ったナリタブライアンに対し、ファンは2番人気という査定を下した。もしも彼に最強馬としての自我が存在したならば、これほど屈辱的で寂しいことは無いだろう。
まだ、見捨てないで…。最強馬のオーラが失せ、悲壮感に苛まれたブライアンは、今出せる力を懸命に振り絞り走ったが、年下の同じブライアンズタイム産駒に、全く歯が立たなかった。
私は、後年、雑誌やビデオでナリタブライアンを知ったが、この1995年秋の彼の姿は、あまりにも痛々しく、見ていられなかった。犬くんや猫さんという伴侶動物と違い、経済動物のグループに入るサラブレッドなので、可哀想に…とは、あまり思わなかったが、それ以上に、強烈な悔しさを感じた。栄光からの転落ほど、虚しいことはない。
昔話を語らなくては、自分を表せない。というのは、実に情けない状況だ。
昔は強かった。昔は金持ちでモテモテだった…。
じゃあ今は?と聞かれると、言葉に詰まる。こんな泣きたくなる様な状況下に置かれたナリタブライアンは1996年、前年と同じく阪神大賞典から始動した。最大の敵は、暮れのグランプリで完膚なきまでに叩きのめされた年下のマヤノトップガン。この時のブライアンを見て、最強馬の決戦。という表現は、些か不適切な感は否めないが、このレースを見るために、土曜にもかかわらず、仁川には5万人の観衆が詰めかけた。
菊で大逃げを打ったスティールキャストが、後続を引き離さず、番手以下を転がすオトナの逃げを展開。マヤノトップガンはそれを見ながら3番手。眩い輝きを放つ栗毛の斜め後ろに、武はナリタブライアンを導いた。完全マークの構えである。
2周目の3角前、マヤノトップガンが動いた。“自分が主役になる”時代へ向かって、離陸を開始したジェット機を目掛けて、ブライアンが来た。勝負所の3~4角。ノーザンポラリスが僅かな抵抗を見せたが、2頭の視界には映らなかった。トップガン田原、ブライアン武。2頭の駿馬と、2人の名手を除いて、世界は色を失った。
内トップガン、外ブライアン。がっぷり四つの攻防が始まった。
トップガンが首から半馬身ほど前へ出る。それに対し、必死に食い下がるブライアン。クビ差以上のリードは許さなかった。馬上では、芸術品の様な騎乗フォームで馬を御する名手、田原成貴と武豊も攻防を繰り広げていた。激しい叩き合いになっても、2人のフォームは微動だにしなかった。
坂の上り。武が右鞭を入れた時、鞍下の最強馬に、闘志の焔が灯った。他馬を喰い殺す様な、あの恐ろしい闘志が、ほんの少しブライアンに戻った。首をグッと下げ、トップガンを飲み込む。ゴールまであと100m、両馬の馬体が完全に重なった。GⅠの様な歓声が、土曜の仁川に響き渡る。
ラスト30m。フッと前へ出たのは、シャドーロールの男だった。GⅠを勝ってもクールなガッツポーズしかしない武が、入線後、右手を握りしめ、小さなガッツポーズを見せた。
ナリタブライアンが1年振りに勝利した、この第44回阪神大賞典は「平成の名勝負」として必ず紹介される。しかし、ブライアンをこよなく愛した大川慶次郎氏に言わせれば、これは名勝負でも何でもないという。氏曰く、全盛期のブライアンなら、何馬身も差を付けて圧勝していた。クビ差の勝利などブライアンじゃない。
また、トップガンに騎乗していた田原成貴も、これを名勝負と騒ぐことに対し、疑問を呈している。玉三郎は「もしも、ブライアンが本調子なら、トップガンは、スタンドへ吹っ飛ばされていた。」と、後年語っていた。
私は、このレースを「感動の競馬」と考えている。大川氏の言う様に、僅差の勝ち方なんて、確かにナリタブライアンのやる事ではない。しかし、僅差でもエエから勝つんや!という、ブライアンの執念を見た様な気がする。最強馬が昔日の栄光を全て捨てて、勝ちに行った。こんなレースが出来るサラブレッドは、後にも先にもナリタブライアンしかいないと思う。
良いレースを見せてもらった。
この時のブライアンに言葉をかけるなら、この一言だけで良い。
賛否両論ある中で復活の狼煙をあげたブライアンは、第113回天皇賞(春)に主役として臨んだ。背中には、こちらも復活したファイター・南井克巳。最強コンビで、6つ目の王冠を目指したが、遅咲きの桜に、満開の花を咲かされ、2着に敗れた。
天皇賞(春)で好走した古馬の次走は、宝塚記念と相場が決まっている。しかし、ナリタブライアンは、この年装いを改めスプリントのGⅠに進化した高松宮杯に出てきた。ヒヨッコ時代に1200mを走っているが、その時とは状況も立場も違う。この異例の参戦は、またまた方々で批評が飛び交う火種になった。
結果は、懸命の追い込みを見せるも4着。久しく走っていなかった6Fの激流の中で、よく頑張ったね。と褒めてやりたい。このブライアン宮杯参戦について、公然の場で激怒したのは大川慶次郎だった。
強い馬はどの距離でも強い。という前時代の使い方をしていては、日本の競馬は進歩しない。という論評をかなり強い口調で断言していた。先生は、自身が執筆された名馬関連の本に、よくナリタブライアンの事を書かれていた。その中でも、同じ様な批判の言葉を綴っていたのを見ると、ナリタブライアンを好き過ぎるが故に、本気でお怒りになっていらっしゃったのだろう。
このレース後に屈腱炎を発症して、ナリタブライアンはターフを去る。それを考えると、何となく後味が悪い幕引きだった感は否めない。個人的には、最後の競馬の鞍上が南井ではなく武だった。という部分にも寂しさを感じる。
引退後、国内史上最高価格となる20億円のシンジケートが組まれ、ナリタブライアンは父になった。繋用先は、生まれ故郷新冠のCBスタッド。国内で実績を残した名牝から、良血輸入馬まで、ベッピンの嫁さん達が、彼の元へ嫁いだ。胆振地方に押され気味だった日高の救世主になって欲しい。と期待されていたが、1998年9月27日、胃が破裂し、8歳という若さでナリタブライアンは亡くなった。後世に残した世代は、わずか2世代。
嫁さん達の良血っぷりから考えると、もし、生きていれば、かつてライバル関係にあったマヤノトップガンと共に、SS軍団に立ち向かうスタリオンとして活躍していたはずで、自身を彷彿とさせるチルドレン達を、確実に競馬場へ送り込んできた。と私は確信している。しかし、亡くなったのが8歳とは。あまりにも早過ぎる…。
ブライアン以降、牡馬の三冠馬は2頭誕生した。ある者はブライアンを超え、史上2頭目の無敗の三冠馬となり、英雄と称えられた。またある者は、強烈な個性を有し、荒々しく三冠を制し、ブライアンと同じく3歳四冠の偉業を達成した。しかし、ナリタブライアンという馬は、三冠制覇から23年経った今でも、最も人気のあるサラブレッドとして、人々に愛されている。
理由はファンが100人いれば、100通りの理由があると思う。私は、先に触れた後輩達も好きだが、どれか一頭だけ選べと言われれば、ナリタブライアンを指名する。地球上に存在したサラブレッドが挑んでも敵わない圧倒的な強さと、ドン底で見せた意地。激しい浮き沈みの中で、懸命に走り抜いた、この完全無欠ではない姿は、どう見ても嫌いになれない。どのシーンを見ても、ブライアンは格好良いサラブレッドだった。これだけは、胸を張って断言出来る。
後学だが、この馬が生きた時を知れた事は、競馬ファンとして誇りに思う。そして、来たる次の時代に、彼の様なサラブレッドが誕生する事を、心から楽しみに待っていたい。
(マイネルハニーや、爺ちゃんにGⅠタイトルをプレゼントしてやっておくれ。)