競馬は色んなことを教えてくれる。もしも毎週末競馬場へ通っていなければ、私は星や花の名に興味を抱くことはなかったと思う。花も星も、レース名や馬名でよく競馬に登場する。お陰様で花の名に少し詳しくなった。あの馬を知らなければ、胡蝶蘭なんて可愛い花を知ろうともしなかっただろう。
広い世の中には、超光速で動くと仮定される素粒子が存在するという。しかし、その存在は未発見とされている。実際に此奴を見た者は、科学が発達した現在でも誰一人いないからだ。光速がより速くなってるんや。そう簡単に見られんやろ。と、科学のかの字も分からない、鼻クソみたいな私は思う。しかし、研究所ではなく、よく晴れた青空の下で、ハッキリとこの仮定素粒子を、競馬ファンという研究者達は見ている。超光速で動く仮定素粒子。その名はタキオンと名付けられている。
武田作十郎厩舎所属時代の弟弟子を10cmにも満たない小差で退け念願のダービージョッキーとなった河内洋。自身が手綱を取ったアグネスレディー、フローラの血を受け継いだ駿馬と制しただけに、感動も喜びも一入だったと思う。美しい栗色の被毛に覆われた67代目ダービー馬の上で、照れ臭そうに拳を突き上げた河内の姿は、記憶にしっかりと焼き付いている。
そんなダービージョッキーとなった河内の元へ一頭の若馬が現れたのはその年の冬。父サンデーサイレンス、母アグネスフローラの牡馬で毛色は栗毛。ダービーを共に勝ったアグネスフライトの全弟と一目でわかる若馬だった。
競馬村は噂が好きな場所である。◯◯厩舎の馬は走る、△△厩舎の馬もヤバイ。など、様々な噂が飛び交い、それをマスコミ氏達がチョイと摘んで、我々へ提供してくれる。ダービー馬の全弟だったこの若馬も、競馬村の噂になった。もちろん「兄貴以上の馬かもしれない」という噂である。
デビューは暮れの阪神だった。お前がダービー馬の弟なら俺だってそうだ、と現れたのは和製ラムタラの異名を取ったフサイチコンコルドの弟ボーンキング。鞍上にフランスの名手オリビエ・ペリエを配した彼に一番人気は譲った。しかし、人気なんてものはファンが勝手に決めるモノ。馬場を走る馬達には一切関係ない。
祖母、母、そして兄貴の手綱を取った河内と初陣に挑んだ噂の栗毛は、上がり33.8秒という驚異的な末脚を披露し、見事に初勝利を挙げた。デビュー戦で33秒台の末脚という数字以上の魅力を感じ取ったのは、背中の上にいた河内だった。
「なんじゃこの馬は!」引き上げてきた栗東の青年団長は、興奮気味に声を上げたという。数多の名馬に携わってきた河内洋ですら驚く才能。滋賀県の山奥にある競馬村で、フワフワと漂っていた噂はどうやら真実だったらしい。
間隔をあけず仁川に再び超光速の物体が現れた。格はGⅢだが、クラシックホースを数多く送り出すラジオたんぱ杯3歳S。名馬への登竜門であるこの舞台で、競馬研究者達はまたタキオンを見た。北の大地でチャンピオンになった暴れん坊も、逞しい汽笛を鳴らし時代を変えようとする白い外国船も、タキオンの尻尾に触れることすら出来なかった。瞬発力、加速力、持続力。レースで勝利するために必要な能力が全て別次元。とにかく強い。余計な能書きが入り込む隙間もないくらい、その走りは圧倒的なものだった。新たな噂が競馬村、そしてファンの間で漂い始める。
三冠を獲れるか?
2001年3月4日。競馬界に春の訪れを告げる弥生賞に彼の姿はあった。人気は1.2倍、いわゆる一本被りの人気を集めた。僅かに春を感じさせる陽が降り注いでいたが馬場は不良だった。まだまだ青いこの時期の若駒達にとって、中山の不良馬場は非常にタフなコンディションである。果たして三冠を獲れる器なのか?真価が問われる皐月賞トライアルに、彼と7頭のライバル達が飛び出した。
中断待機策ではなく、先行3番手で進んだ。前にはメジロパーマーの息子デルマポラリス、そして同じ日にデビュー戦を迎えたボーンキング。彼らより後ろは少し離され、馬群は縦長の隊列だった。3~4角の中間地点、大外へ持ち出したタキオンは一気のマクリを打つ。このとき見せた反応、そこから繰り出されるマクリ脚は、何度見てもワクワクする。あっという間にデルマポラリス、ボーンキングに並ぶと別次元へ突入する準備に入った。そうはさせまい、とボーンキングの武が兄弟子へ抵抗するように競り合いに持ち込もうとした。しかし、並ぶ間すら与えなかった。中山名物である高低差2.2mの急坂も平坦に見えるくらいのパワーは、恐怖すら覚えるバケモノみたいな脚だった。そんな恐ろしい馬に付いて行ける者は誰もいなかった。タキオンの強さを最も接近した位置で見た武も「クラシックもハンデ戦にしないとね」と、冗談を飛ばすことしかできなかった。
タフな馬場コンディションも、光を超えんとする駿馬には関係ない。気の早い競馬ファンは、三冠確実という最上級の四字熟語を贈った。
もう疑う者はいない。4月15日、三冠ロードの一冠目、第61回皐月賞に現れたタキオンを、59.4%という当時歴代2位の単勝支持率で迎え入れた。まだ20世紀から21世紀に変わって4か月。こんなに早く三冠馬になれる器を持った優駿を見られるとは…。若葉の緑が眩しく輝く中山に、得体の知れない高揚感が満ち溢れた。
その高揚感に感化されたのか、ジャングルポケットがスタートで後手を踏んだ。最大のライバルと目されていた暴れん坊のアクシデントに目もくれず、タキオンと河内は先行グループのすぐ後ろ、5番手くらいに陣取った。淡々と進む18頭の少年達。タキオンから少し離れた位置にいたボーンキングは、いつでもやってやるという構えを見せ、ジャングルと人気の一角に推されていたダンツフレームは更にその後ろを進んだ。河内が動く。音もなく静かに。それを見てボーンキング、ジャングルポケット、ダンツフレームが追撃を開始する。特に大外をぶん回してきたジャングルは、角田が少しでも手綱を緩めればスタンドへ吹っ飛んでいくような荒々しい走りだった。
ここで捕えなければまた光の速さで異次元へ消えてしまう。17頭の馬と、17人のジョッキーは必死でタキオンを追いかけた。しかし、3つのクラウンを狙う金色の素粒子と河内の視界に彼らが映ることはなかった。完勝には変わりなかった。ただ、ラジオたんぱや弥生で見せた迫力と比べれば、少しインパクトに欠けると私は思った。この皐月賞を制し、史上5人目のクラシック競走完全制覇を成し遂げた河内が、勝利インタビューで「本来の走りではない。」と呟くように語った。
この名手の呟きは最悪の形で現実のものとなる。5月2日、ダービーを目前に控えたこの日、小さな競馬村に大きな衝撃が走った。
アグネスタキオン屈腱炎発症
まだ桜の蕾も固く閉じていた頃から、三冠を獲れると自信満々に語っていた長浜博之。その師が、憔悴した面持ちでタキオンの病状と今後を語った会見を今でも覚えている。我々ファンと同じく、師もタキオンに大きな夢を見ていたのだ。タキオンに襲い掛かった屈腱炎は、重症の部類に入る症状だった。関係者が協議した結果、復帰は難しいと判断され、8月29日に引退が決まった。通算4戦4勝。彼の大先輩にあたる、あの一期生の優駿と同じく、無限大の可能性を秘めたまま、タキオンはターフを去った。
父となったタキオンを待ち構えていたのは、自身の親父サンデーサイレンスの次を争う種牡馬レースだった。競走馬時代より過酷と言われる、繁殖馬としての生活に突入したタキオンは、初年度産駒からいきなり重賞ホースを送り出し、ファーストクロップサイアーランキングで頂点に立った。父としての存在を確立し、2008年。内国産馬ではクモハタ以来となるリーディングサイアーのタイトルを獲得した。これは51年振りの快挙である。
やはりこの馬は只者ではなかった。これで父も安心して天国の牧草をゆっくり味わえるだろう。と、思った矢先にアグネスタキオンの訃報が届いた。享年11歳、あまりにも早過ぎる死だった。もしも彼が生きていたなら、今日の種牡馬界を支配する英雄の前に、巨大な強者として立ちはだかっていたと私は思っている。それくらい魅力溢れる種牡馬だった。
タキオンという素粒子は、どれだけ減速しても、光速以下の速度で運動出来ないという性質を持つとされている。研究室のタキオンは、いつか必ず見られる日が訪れるだろう。しかし、真の姿を見せることなく去って行ったサラブレッドのタキオンは、永遠に謎のままだ。この謎を考えるたびに、私はいまだにワクワクしてしまうのである。