【追憶の名馬面】アグネスフライト - 3/3

【追憶の名馬面】アグネスフライト - 2/3の続き

歓喜の涙と悔し涙を流した青春時代が終わり、古馬になったアグネスフライト。京都記念から始動するも、マックロウと安田康彦の末脚に屈し2着。まさかこれが最後の連対になるとは、誰も思わなかったと思います。

続いて挑んだ大阪杯では10着に敗れ、屈腱炎を発症し、1年と7カ月の休養を余儀なくされました。最も脂がのる、4歳秋の時期を棒に振ったフライト。もし、無事だったら、もう一花でも、二花でも咲かせられたはずです。

彼が辛い療養生活を送っている頃、チラホラと聞こえてきた「2000年世代は歴代でも最弱」という陰口。結果を出さなければ、ドン底まで叩き落されるのが競馬の世界。かつて鎬を削ったエアシャカールも苦戦と惨敗を繰り返し、大衆は振り向かなくなった。イーグルカフェが、フランキーに導かれJCDで劇的なVを飾るも、翌日、行われたJCでもフランキーが、イタリアのファルブラヴで勝利したことにより、フランキー神騎乗!と騒がれ、頑張り屋のイーグルカフェは、一部でしか話題にならなかった。

屈腱炎を完治させ、2002年にターフに戻ってきたアグネスフライトを待っていたのは、勝てない日々だった。復帰戦の天皇賞秋はブービーの15着、続くジャパンカップは、16着の最下位。ダービー馬のプライドが、消えて無くなるくらいズダズダに引き裂かれた。

傷心の彼に追い打ちを掛けるかのように飛び込んできたのは、1人の名手が鞭を置く決意を固めた、というニュースだった。

河内洋、引退。

去りゆく名手の最後の重賞レースは、第96回京都記念。パートナーはアグネスフライト。最後のダービーコンビを、ファンは5番人気に推した。この人気は、河内への惜別とフライトの復活を願う思いが込められていた、と思います。

アグネスフライトにかけた河内の思い

雨に煙る淀のターフで、彼らが採った最後の作戦は、先行だった。一昨年、ここから王者へ、と燃えていたあの京都記念と同じ作戦。この部分に、自身のラスト重賞Vではなく、相棒を復活させてから去りたい、という河内の馬想いな心情を感じ取る事が出来る。

勝負所の4コーナー。外から上がってきた馬達に寄られ、少し苦しくなった。しかし、まだ絶好位。出口で前が開けば突き抜けられる。植え込みを回って、その出口に差し掛かった時、競馬の神さんが、一瞬彼らに振り向いた。

前に誰もいない。河内は右鞭をフライトに入れ、仕掛けた。力強く、繊細に放たれた4発の鞭を受けたフライトだったが、やはり伸びない。もがき苦しむダービー馬を、後続が容赦なく交わして行った時、河内とフライトの挑戦は終わった。

6着。河内を白星で、第二の戦場へ送り出すことは出来なかった。その後、阪神大賞典を走ったフライトは、河内に続くように、ターフヘ別れを告げ、同じく第二の戦場へ旅立って行った。

第二の戦場、いわゆる種牡馬レースは、現役時代よりも、過酷な戦いが繰り広げられる、厳しい舞台。彼が種牡馬となった時分は、サンデーサイレンス亡き後の覇権を争う混迷の時期だった。フジキセキ、ダンスインザダークといった同じSS一族に、最後の御三家ブライアンズタイム、スピードを売りに席巻するミスタープロスペクター軍団…。これらを抑え込み、サンデー亡き後、初めてリーディングサイアーとなったのは、全弟のアグネスタキオン。

賢兄愚弟、という四字熟語があるが、皮肉にもフライトタキオン兄弟は、逆の愚兄賢弟、となってしまった。私のような者と、フライトを重ねるのは失礼かも知れないが、私も方々から愚兄と呼ばれているので、何となくフライトに同情したくなってしまう。

ただ、何の取り柄も無い私とは違い、フライトには生涯色褪せることはないタイトルが頭上にある。

日本ダービー馬。

彼は愚兄なんかじゃない。ダービー馬になった立派なお兄ちゃんです。(了)