例え、他人から蛇蝎の如く嫌われても、己の信念を貫き通した男がいた。
その男、吉田善哉は、時に国と、またある時は同業者と争いながら、社台ファームという牧場を築き上げたホースマンである。
馬に全てを捧げた男の経営は単純明瞭で、儲けが出れば、全て次の馬に注ぎ込むものだった。
バリバリの良血でもハズレがあるのがサラブレッド。
という真理に近い概念は、我々ファンも馬券で身を持って知るところである。馬産業も同じで、期待を込めて大金を払い、いざ連れて帰って来た馬がサッパリ…という泣きたくなるケースが存在している。どの分野でも、サラブレッドというのは難しく厳しいのだ。
しかし、善哉は、例え失敗しても怯むことなく、次から次へと新しい馬を、我が家に持ち帰って来た。歴史に名を残す人物、というのは、得てして、この様に奇を衒う様な人物が多い。これが出来るのも、自分に絶対的な自信があるからだと思う。これは、一つ見習いたい姿勢である。
ただ、一般的な経営術から考察すれば、危険極まりない術で、息子の吉田勝己は、父が喜色満面で新しい馬を連れて帰って来るたびに、辟易とした思いで、帳簿を眺めていたらしい。
このまま行けば社台は潰れる…。現在の社台グループを見ると、俄かに想像出来ないが、何度も倒産の危機に直面した時代があった。その度に、彼らを救ったのは銀行ではなくサラブレッド。社台の歴史を振り返ると、どの時代にも必ず、今日まで名を残している名種牡馬が現れる。
ガーサント、ノーザンテースト、トニービン、そしてサンデーサイレンス。もちろん、この4頭以外の種牡馬、肌馬、それを管理するホースマン達も、度重なるピンチを共に救ってきたのは言うまでもない。
特にノーザンテーストは、日本競馬界の土台をブチ壊し、新しい時代の基礎を築いた。
産駒のダイナガリバーが、1986年のダービーを制した時、従業員の前でも、3人の息子を烈火の如く怒鳴りつけ、歩くカミナリと言われた、あの吉田善哉が「いつも馬が私を助けてくれる」と憚りもなく泣いたのは有名な話である。
そんな馬産業界のガリバーが、晩年に連れて帰って来た一頭の肌馬、ノーザンダンサー産駒のアンティックヴァリュー。"平家にあらずんば人にあらず"ならぬ、"ノーザンダンサー産駒にあらずんばサラブレッドにあらず"と一時代を築いた、偉大な種牡馬の血を引く彼女に、1988年、新しく社台に仲間入りした凱旋門賞馬トニービンを掛け合わせた。無事受胎したママは、翌年一頭のフィリーを出産した。
どこからどう見てもバリバリの良血馬だったが、脚が内側に大きく湾曲し、見栄えは良くなかった。当初、この仔馬は、クラブ馬として所有する予定だったが、この見栄えでは…と、それを断念。善哉の妻である、吉田和子氏が所有することになった。
足が曲がったフィリーの顔を見ると、額に、ウネウネと蛇行した流星が一筋。そこに星を散らした様な斑点があった。これを見た、和子の孫が、七夕を想起し、女の子なので「織姫星」、ベガと名前が決まった。
今日は、七夕の願いを叶える星の名を与えられた、名牝の足跡を振り返ってみよう。
ベガは、1992年、栗東松田博資厩舎に入厩した。吉田勝己に「母の馬だから好きにやっていい」と、指令を受け取った松田は、不安点である脚の様子を見ながらジックリ調整した。この部分に、松田が、ベガに何か可能性を感じていた、ということが読み取れる。ジックリ丹念にやれば…。松田厩舎は、彼女の活躍を短冊に書いたのだ。
デビューを迎えたのは1993年の1月、京都競馬場。同期に遅れてようやくターフに立ったベガは橋本美純鞍上で挑むも2馬身半差の2着。しかし、一度しか時計を出していない状況で、ここまで走った彼女を見て、陣営は俄かに活気付いた。期待100%の2戦目も橋本が手綱を取る予定だったが、調教に遅刻したことに対し松田が激怒。彼を降板させ武豊に騎乗を依頼した。
ベガに彦星が現れた瞬間である。任せられた彦星は、キッチリ彼女を導き、初勝利をプレゼント。引き上げてきた武は、松田に「この馬はオークスを勝ちますよ」と語ったという。
脚が曲がり、どうしようもなかったサラブレッドが、クラシックを勝つかも…。星に願いを、なんて馬鹿げてらぁ、と荒むもんじゃない。
彦星と出会った織姫星は桜花賞トライアル・チューリップ賞へ挑んだ。3歳女王スエヒロジョウオーを差し置いて、ベガは一番人気に推された。4角で先頭に立つと、そのまま突き放し3馬身差で圧勝。頭上に輝く七夕の星は、まだ離れているが、地上にいる星は、輝きを増し栄光へ急接近し始めた。桜咲く仁川で夢は叶うか?
1993年4月11日。第53回桜花賞競走。向こう正面に植わる桜花がこの時を狙って咲き誇る。世界で一番華やかな大レースの舞台にベガはいた。
その頃、吉田善哉は病と闘っていた。日本競馬界を根底から変えた名ホースマンも、老いと病には敵わず、生産馬の花舞台を、彼は冷たい病床で見守ることになった。
花弁が舞う様に18頭の少女たちが飛び出した。大方の予想通り、内目の好枠を引いたヤマヒサローレルと猿橋がスーッとハナに立とうとした。しかし、それを外から制したのはマザートウショウと、東の若きホープ横山典弘。ベガは、好スタートを決め、その2頭のスグ後ろに付けた。
前を見ながら進める絶好位。単勝2.0倍の圧倒的支持を受けても、背中の彦星に動揺はなかった。ただ、若手の武よりも、キャリアが豊富で、数多の栄光を手にしてきた猛者たちは、そんなに甘くない。ベガの後ろには、水沢のベッピン少女、ユキノビジンと安田富男、二冠牝馬の愛娘、マックスジョリーと柴田政人が、ピタリとマークしていた。
4コーナー前で、逃げられなかったヤマヒサローレルが脱落すると、ベガは浮上を開始。それを目掛けてマックスジョリーが、いい手応えで迫ってきた。
直線、まだ内で踏ん張るマザートウショウを、男勝りの力強さで交わすと、仁川の桜舞台は、ベガの独壇場となった。
一番後に動いたユキノビジンが、坂上で一気に迫ってきたが、彼女には関係なく、六甲山麗から緩やかに吹く春風に迎えられて、桜の女王に君臨した。
夢が一つ叶った。誰もが憧れるクラシックの冠を、ベガは頭上に戴いた。次は、更に輝きを増すであろう府中の2400mで行われるオークス。新たな夢へ、期待は膨らむばかりだった。
また馬に助けられたな…。
病床で見守った吉田善哉は、危篤状態から脱し、こう呟いたという。馬という生き物は、この世に誕生して以来、人に尽くし続けてきた生き物である。常に自分達を人生の中心に据え、手を焼いてくれた男に、彼女はお返しをしたのだろうか。私は、彼の馬一筋な足跡を見ると、こんなお伽話みたいなことも、戯言ではない気がする。
主役として東を目指すことになったベガだったが、初めての長距離輸送が堪え、発熱や食欲不振に陥った。人気になる馬は、些細な欠点でも大きなマイナス材料とされる。女王候補筆頭になった彼女にも、方々で不安説が囁かれた。
1993年5月23日。第54回優駿牝馬競走。ベガは一番人気だったが、3.4倍。戦前に囁かれた不安説を、ファンが信じた結果、一気に波乱も有り得るかも知れない、という状況に変わっていた。背中の上にいる天才は、この状況を訝しんだ。彼女が初勝利を挙げ日、オークスを勝てる、と確信した彼には、この時、自信しかなかったからだ。
やや薄曇りの空の下、1989年世代の女王を決める戦いが始まった。大外のワコーチカコ橋本広喜が、外へ寄れてしまったが、その他の各馬はまずまずのスタートを決める。内からユキノビジンがハナに立つ素振りを見せたが、ヤマヒサローレルと南井克巳は譲らなかった。持ち味を発揮出来ず、悔し涙を流した桜の雪辱を、樫の舞台で晴らさんと、彼女はハナを叩いた。ベガは、やはりその先行争いを、シッカリ見られる絶好位。前で必死にやり合う同期生を、彼女は、どういう思いで見ていたのだろうか?
修羅場を売りにするドラマなら、高飛車なお嬢様が見下す、という安いモノが思い浮かぶが、ベガは、何方かと言えば、お嬢様というより、どこにでもいそうな少女、といった感じがするので、このシナリオは無しだ。
逃るヤマヒサローレル。その走りは、ようやくスポットライトを当ててもらったヒロイン、といった感じだった。番手以降は、コバノフラッシュ田面木博公、ユキノビジン、ベガと4番手までは、大体1馬身間隔での追走。ベガから後ろは、ギッチリと密集し、野郎には無い熱気が漂っていた。
ポツポツ、ギュッ…と隊列を組む彼女達だったが、折り合いを欠いて騒ぐ者はいなかった。この部分に、優雅な女の戦い、を見出せる。静かに罵り合う。この場合、ヒステリックに喚けば負けなのだ。
勝負所まで、静かに静かに一団は進んでいった。
欅の前を過ぎる。ここからは、誰も経験したことが無い未知の世界。いの一番に、そこへ飛び込んだヤマヒサローレルは、後退し始めた。
先頭で逃げられて満足だったか?それとも、最後まで先頭に居たかったか?これはローレルに聞かなければ分からない。
そのヤマヒサローレルを、先に交わしたのはユキノビジン。水沢から上京して来た少女と、ベテランの安田。温かみを感じる素朴なコンビが、栄光を手にしたい、という願いを屠る流星が、外から流れて来た。
武は内にいるユキノに、ベガの馬体を併せた。坂で繰り広げられる接戦からは、可憐な少女の姿を想起することは出来ない。
生きるか?死ぬか?
生命を賭して戦うサラブレッドの姿があるだけだった。
ダラダラと続く坂を登りきった時、ベガは、静かな末脚を繰り出し、スッと抜け出した。
突き放された素朴なコンビに、流星を追いかける気力は残されていなかった。マックスジョリー、或いはデンコウセッカ小島貞博が迫ったが、この舞台も一頭のヒロインの独壇場と化した。
その日、武蔵野の森には、目が眩む様な光を放つ星が、一つ輝いたのだった。例え気が悪くても、例え脚がひん曲がっていようとも、馬は走らなければ分からないもんである。クラシック2冠馬。彼女の名前は、確実に歴史に刻まれた。
彼女が立派な女王となったのを見届け、1993年8月13日、吉田善哉はこの世を去った。享年、72歳。記録にも記憶にも残る偉人の名も、日本で競馬が行われ続ける限り、消えることは無いだろう。ただ一つ、心残りなのは、サンデーサイレンス産駒を見られなかったことだろうか…。
10年後、サンデーの子が日本中で走っているよ。
生産者は予言者であれ。と語っていた彼の最後の予言の結果は、ご覧の通りである。
女王になったベガだったが、秋は悔しいシーズンとなった。3冠の夢は、東から彗星の如く現れた、もう一頭のベガ、ホクトベガにやられ3着。メジロラモーヌ以来の3冠牝馬誕生はならなかった。
また当時は、牝馬路線が未整備だった時代だった為、クラシックを戦った4歳牝馬達は、古馬、牡馬を相手にする道しかなかった。ベガも必死に猛者達へ立ち向かったが、歴戦の雄達の前では、小娘にしか過ぎず、勝ち星を手にすることは出来なかった。
陽が昇ると、新しい一日がやって来る。それは同時に、夜を照らした星々が姿を消す時である。
ベガにも新しい一日がやって来た。宝塚記念で13着に敗れた、彼女は、母として新しい生活を送るべく、故郷へ帰って行った。
母として初めて授かった子供は、サンデーサイレンスとの間に産まれた牡馬。少年の額には、涼やかな流星が流れていた。桜花賞のパドックで、ベガに惚れた、という近藤利一に迎えられた少年は、アドマイヤの冠名と母の名を与えられ、アドマイヤベガと名付けられた。
そして1999年、ベガは、いきりなりダービー馬の母となった。新しい世界でも夢は紡がれていく。その後も、活躍馬を次々とターフへ送り出し、華麗なる一族を形成した織姫は、2006年、16歳で本物の星になった。
ただ一頭、遺された娘、ヒストリックスターは、一度もターフを踏むことはなかったが、母として2011年、ディープインパクトとの間に、牝馬を授かった。
ハープスター。
こと座の一等星である、ベガの別名を名付けられたフィリーは、祖母も戴いた桜の王冠を頭上に、フランスへも果敢に挑んだ。
織姫星に込められた夢の物語は、まだ終わらない。