自分と同等、もしくはそれ以上の力量を持つ者を指す言葉にライバルというものがある。日本語では好敵手と訳される、この言葉のルーツは、ラテン語で小川という意味の、rivalis から生まれた。川をはじめとする、水源は人間が生きていく上で必要不可欠なもの。これを巡って争う人々を例えて生まれた言葉も、今日では、スポーツ界でよく耳にするモノになった。
我々が日々楽しむ競馬にも、ライバルという言葉は深く浸透している。
例えばテンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスの3頭が形成したTTG時代。平成ではビワハヤヒデ、ナリタタイシン、ウイニングチケットが作り上げたBNW時代など、力量が接近した馬達によって、熱いレースが繰り広げられた。
その瞬間の一つずつが、一編の物語の様に流れていく。しかし、テレビドラマや小説とは違い、ウマ物語には次のページがない。
誰が勝つのか?いや、それとも全員、全くノーマークだった馬にやられるのか?
次のページが分からないので、手元に握られている紙切れを忘れて、その光景にのめり込んでいく。この時間が、私は競馬の中で最も好きだ。
1995年。
サンデーサイレンス一期生の逸材達が、クラシック戦線を席巻したこの年。日本とアメリカで、5頭のサラブレッドが産まれた。同じ時を過ごすことになる彼らが作り上げた一つの物語。今回は、その物語の主人公の一頭、日本で産まれ、様々な期待を背負ったスペシャルウィークの足跡を辿ってみたい。
1995年5月2日。北海道沙流郡門別に居を構える日高大洋牧場で、彼は産声を上げた。父サンデーサイレンス、母キャンペンガール。サラブレッドにとって、何よりも大切な血筋を観察すると、母系にシラオキという馬の名前が現れる。世界に通づる優れた馬の生産を目標に掲げ、岩手に開かれた小岩井農場が輸入した基礎牝馬、いわゆる小岩井牝系から産まれたシラオキは、日本競馬の黎明期において成功を収め、一族を形成した偉大なサラブレッドであった。日米の眩い良血が交わり、世に生まれたスペシャルウィークだったが、その幼少期は寂しいものだった。
彼を産んだ5日後、キャンペンガールは疝痛でこの世を去った。母馬と一緒に過ごすというサラブレッドにとって最も幸福な時間をたった5日間しか経験出来なかった仔馬は、馬房で独り泣き喚いたという。独りぼっちになった彼に、重種の輓馬が乳母役として招かれた。しかし、この義理の母は気性が荒く、子守の役目を果たそうとしなかった。
そんな彼を孤独から救ったのは牧場のホースマン達。誰よりも人を頼ったスペシャルウィークは、人懐っこく従順な性格になり、成長していった。
競走馬として走るための育成期間に入った頃、逞しく成長した仔馬の走りは俄かに評判となった。同じ頃、彼が鍛錬を積む日高から少し離れた胆振(いぶり)という場所にも「走る馬」と騒がれた逸材がいた。その馬は、海を渡り遠路遥々、アメリカから日本へやって来た栗毛の外国産馬。
キャンペンガールか?アメリフローラか?
アメリフローラの仔。後にグラスワンダーと名付けられるライバルと、人間の口論で初めて出会ったのだった。
1997年。
育成期間を終えた仔馬は、名をもらい栗東の白井寿昭厩舎に入厩した。調教を見守った白井は、走りの癖を見て、かつて手掛けたダンスパートナーに似ている、という感想を持った。
この調教に騎乗したのは武豊。数多の名馬の背を知る天才は、まだ海のモノか山のモノか分からない若駒の素質を、スグに見抜いた。
ダービーを獲れるかも知れない…。
武は早くも来春の大舞台を想像し、馬から降りて白井に、その感触を伝えた。
「ダンスインザダークに似ていますね。」
11月29日。阪神の芝1600mで、デビューの時を迎えた。前評判の高さを聞きつけたファンは、1.4倍の圧倒的一番人気に支持した。3番手くらいで流れに乗り、直線に入って武がスパートの合図を送ると、類い稀ない瞬発力を見せつけ見事に初陣を飾った。
どうやら攻め馬の感触は、ホンモノらしい。夢に描く府中の大舞台が、少しずつ現実味を帯びてくる。2歳時は、この一戦のみで終わり、明けて1998年。年明けの京都の条件戦、白梅賞に挑んだ。人気はもちろん圧倒的一番人気。中団から進んだが、勝負所で前が塞がる不利に見舞われた。それを捌き、伸び脚が繰り出された瞬間、公営笠松のアサヒクリークに、内から差し切られ2着に敗れた。
まさかの敗戦となったが敗因は明らかだった。調整不足。白井はあと一週あれば完璧な状態だったと語り、同時に不足気味の状態でここまで走ったスペシャルウィークの才能に、改めて驚いたという。
素質があることは分かった。しかし、ダービーへ出るには、賞金を積み重ねなければならない。刻一刻とリミットが近づく状況で、陣営が選択したのは、格上挑戦できさらぎ賞に挑むというプランだった。
格上挑戦というと、普通は軽視する要素だが、スペシャルウィークの能力を知っていたファンは、ここでも一番人気に支持した。
負ければ道が険しくなる。そんなギリギリの状況下で挑んだスペシャルウィークは、3馬身半差の圧勝を事も無げにやり遂げ、クラシックロードに乗った。
もし、白梅賞を勝っていたら、きさらぎ賞ではなく共同通信杯を使う予定だったという。1998年の共同通信杯は、雪の影響で芝からダートへ施行条件を変更し、行われている。
このダートの共同通信杯を勝ったのがエルコンドルパサー。
スペシャルウィークにダートの適性があったかどうかは分からないが、仮にあったとしても、エルコンドルパサーには敵わなかっただろう。
能力、そして運もある。
大きな野望を抱き、一向は西の大将格として東上した。
3月8日。スペシャルウィークの姿は中山にあった。皐月賞トライアル弥生賞に挑んだ彼の前に、2頭のライバルが、満を持して登場する。
セイウンスカイとキングヘイロー。
皐月賞、ダービーと3強を形成するライバル2騎と、ここで初めて相見えた。
キングヘイロー、セイウンスカイ、そしてエルコンドルパサーとグラスワンダー。
役者は揃った。このライバル達を相手に、果たしてスペシャルウィークは、どの様な戦い振りを見せるのか?更に彼の姿を追って行こう。
デビュー以来、全て1番人気に支持されてきたスペシャルウィークだったが、ここではキングヘイローに、その座を譲っている。スペシャルウィークも良血だが、キングヘイローは桁違いの良血。父は欧州の至宝と言われたダンシングブレーヴ、母のグッバイヘイローは、ケンタッキーオークスなどアメリカでGI7勝を挙げた名牝だった。
しかし、蓋を開けてみると、4コーナー付近から捲ったスペシャルが、逃げるセイウンスカイと徳吉をゴール前で差し切りV。キングヘイローは、この2頭から、やや離された3着に終わった。フジテレビのアナウンサー、塩原恒夫が言う。
如月、弥生を制して皐月は見えたか!
ダービーどころか、もしかしたら三冠も…。
彼の背中に乗せられた夢は、クラシック本番が近づくにつれ、大きくなっていった。
4月19日。第58回皐月賞。
最も速い馬が勝つ。と言われる一冠目、スペシャルウィークは、定位置の一番人気に返り咲いた。枠順は8枠18番。結果的にはこの大外枠があっけなく三冠の夢を打ち壊すことになった。
コウエイテンカイチと熊沢の逃げでレースは始まった。徳吉から横山典弘に替わったセイウンスカイは、逃げずに番手からのレース。スペシャルウィークは、例によって後方で脚を溜めた3〜4コーナー。桃色の帽子が前方目掛けて浮上を開始。この馬に大外枠は関係ない。直線でスパッと差し切る姿を想像したファンの眼の前に繰り広げられた光景は、白い馬の逃走劇だった。
勝ったのはセイウンスカイ。彼が活躍する前に、父のシェリフズスターは行方不明になった。この孝行息子の走りを、スタリオンステーションで聞けなかった父の無念を考えると、私は悲しい気持ちになってしまう。例え、サラブレッドが母子家庭であるとしてもだ。
スペシャルウィークは、懸命に伸び脚を繰り出したが、キングヘイローにも及ばず3着に敗れた。敗因は、仮柵を外したことにより内側に出来たグリーンベルト。流石のスペシャルウィークも、大外枠からでは、ここをキッチリ通ったセイウンスカイを捕らえることは出来なかった。
故に、決して力負けによる敗戦ではない。三冠という夢は破れたが、陣営は前を向きダービーを目指した。
日本ダービー。ホースマンなら誰もが憧れるこのレースに対し、人一倍、強く憧れを持つ男がいた。
武豊。
1987年のデビューから、競馬界にある記録という記録を塗り替え続けてきた天才に、唯一欠けていたのが、このダービーだった。
1988年、コスモアンバーとの挑戦から始まり、これが10回目のダービー。ようやく、そのタイトルが、手に触れられるところまで来た。散らつく1996年の影を振り払い、周りの人々をシャットダウンし、武は一人、ダービーへ向けて集中力を高めた。
1998年6月7日。第65回東京優駿、日本ダービー。1995年に産まれた9212頭のサラブレッドの中から選りすぐられた18頭が、この大舞台に挑んだ。
18/9212。この数字を見ると、出られるだけでも名誉。という文句は、決して誇大なものではないと実感する。
人気はスペシャルウィーク、キングヘイロー、セイウンスカイの3強に集中し、4番人気以降は10倍台のオッズを付けていた。
いざ世代の頂点へ。
15時30分、ダービーのゲートが開いた。