【追憶の名馬面】スペシャルウィーク 第2話「希望の光」

第1話「ライバル」

けたたましい金属音が一瞬の静寂を打ち破った。18頭の優駿が鉄檻から飛び出したのを確認すると、スタンドを埋め尽くした観衆の声が杜に響き渡った。

全馬、見事なスタートを決め、1コーナーへ向かっていく。タヤスアゲイン柴田善臣、エスパシオ後藤浩輝がハナを叩く素振りを微かに見せたが、セイウンスカイと横山が制して戦前の予想通り主導権を握ろうとした。しかし、その下馬評をブチ壊す馬が現れる。

緑のシャドーロールを鼻上に載せた、キングヘイローと福永祐一。口を割り、暴君の様にコーナーを曲がって行く。デビュー3年目の福永は、これがダービー初騎乗だった。上体を起こし、必死になだめるも相棒は止まらない。後に彼は、この時の状況を回想し「頭が真っ白になった」と語っている。

キングヘイロー先頭で、2コーナーから向こう正面へ。スペシャルウィークは、少し折り合いを欠いたが、武の繊細な手綱操作で折り合うと、中団やや後ろに控えて末脚を溜めた。この時、武は意図的にタイキブライドルの後ろに付けたという。タイキブライドルに騎乗していたのは岡部幸雄。気を衒うような事をせず、スマートにレースを展開する岡部の後ろは、中団後方から行く馬にとって、何よりも安全な場所だった。

彼らの背後には、ボールドエンペラー河内洋、ミヤシロブルボン大塚栄三郎といったベテランが手綱を取る馬達が追走していたが、真横には誰もいなかった。タイミングさえ誤らなければいつでも出せる。ダービーに飢えた天才はその機を静かに狙い澄ました。

ふと、前方を見ると、キングヘイローの折り合いが付いている。それをピタリとマークするセイウンスカイ。折り合い付けど苦しい流れには変わりなかった。デビュー3年目のアンちゃんに、そう易々と勝たせてなるものか。1990年、メジロライアンと悔し涙を飲んだ横山。彼もまたダービーのタイトルを渇望する名手の一人だった。

欅を過ぎる頃、赤い帽子が外目へ出る。岡部地帯から離脱したスペシャルウィークと武は少しずつ前へと浮上していく。手応えは絶好。ここまでは文句なしの流れだ。

先頭のキングヘイローは息を入れ、セイウン以下を引きつけた。早めに捲る姿勢に入ったダイワスペリアーの手応えも良い。菊沢隆徳がガッチリ手綱を抑えて、爆発の時を待っている。

4コーナーを回り、9212頭のサラブレッドが憧れた530mのダービーの直線へ、18頭の馬達が入った。

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キングヘイロー先頭。

福永の名が、ダービーの歴史に刻まれる!

祐一の父、福永洋一を知るオールドファン達の鼓動が高まった。

しかしその希望は、残り400mの地点で消えた。テンで折り合いを欠いた影響は、彼らから栄冠を持ち去った。垂れるキングヘイローを確認し、待ってましたと番手から先頭に立ったのはセイウンスカイ。ここで勝てば行方不明の父も出てくるかも知れない。1完歩ずつ坂を力強く登る芦毛馬に、栄光がチラつき始めた。

様々な想いが入り混じる中、スペシャルウィークと武は、進路を失っていた。前にいたダイワスペリアー、センターフレッシュが彼らの前に立ち塞がったのだ。

また、勝てないのか…。

光が消えかけたその時、一瞬前が開いた。その隙間を武は見逃さなかった。そこへ相棒の鼻をねじ込み、進路を切り開く。隙間が生じた時間は、1秒にも満たない僅かな時間。

最も運がある馬が勝つ。

ダービーの格言が、彼らの背中を押した。
白井がきさらぎ賞で感じたこの馬の強運は現実となった。

武が右ムチを入れると、スペシャルウィークは、鍛え抜かれたあの瞬発力を最高の形で発揮した。一陣の風のようにタヤスアゲインを交わし去り、前を行くセイウンスカイを捕えた。坂上は横山と武の叩き合いになる、と見た観衆の予想は、大きく裏切られる。

スペシャルウィークは、セイウンスカイと馬体を併せる事なく、坂を一気に登り切った。2馬身、3馬身と差は、あっという間に開いた。

夢にまで見たダービーのタイトルが、遂に自分の元へやってくる。その興奮は、天才の繊細な手元を狂わせた。坂を登り、ゴールまであと約100mのところで、武の右手から、ステッキが転がり落ちた。

競馬の神様は、どこまでこの男のダービーを邪魔するのだろうか。最後の最後に、ムチを落とすという試練を与えられたが、ビュンビュンと駆けるスペシャルウィークに、もうムチは要らなかった。

前方に誰もいないダービーのゴール板に、彼らは飛び込んだ。GIを勝っても気持ち程度のガッツポーズしかしない武も、憚ることなく喜びを爆発させた。相棒の首筋を叩き、何度も何度も拳を握りしめ、ターフで叫んだ。

勝って引き上げて来る人馬を、スタンドの観衆は地鳴りの様な歓声で迎え祝福した。その光景を見た武は

「それまでの人生で、最大、最後の瞬間」

と語っている。

ロングエース、ミスターシービー、シンボリルドルフを見て憧れ、騎手になってから味わった9度の悔しさ…。全てが、この2:25.8で、結実したのだった。

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ダービー馬として迎える秋。更に逞しさを増したスペシャルウィークは、菊花賞トライアル京都新聞杯に挑んだ。秋の柔らかな陽射しが降り注ぐ空模様だったが、馬場は稍重。しかし、世代の頂点に立った者が、渋った馬場くらいで根を上げることは許されない。

力強く芝生を蹴散らし躍動したダービー馬は、キングヘイローとの叩き合いを制して、堂々と秋の進軍を開始した。

11月8日。第59回菊花賞。弥生の空の下で出会った馬達の戦いは、最終戦を迎えた。

人気はスペシャルウィークとセイウンスカイに集中した、2強ムードの様相を呈し、やや開いて、春三強を形成したキングヘイロー、ダービー3着のダイワスペリアーと並んだ。

春は少し遠慮がちだったセイウンスカイが、ノビノビと淀の馬場を疾走する。マイペースに運ぶ彼らを、スペシャルウィークと武は、いつも通り後方から睨んでいた。

坂を越えてもセイウンスカイはマイペース。武が動く。スペシャルウィークが、二冠へ向かって追撃を開始した。武が天才なら、横山は奇才と言えるかもしれない。あっと驚くようなシーンを、この男はいつも見せてくれる。

植え込みを回って直線へ入った時。絶妙なタイミングで、横山はセイウンスカイにGOサインを出した。機敏に受け取った白い馬は、一気に後続を突き離した。内でキングヘイローが、ジリジリと伸びている時、彼方からスペシャルウィークが、メジロランバートと併せ馬で飛んできた。しかし、残り200mを前に、勝負は決していた。

3:03.2。3000mの世界レコードで逃げ切ったセイウンスカイが、1998年のクラシック戦線を締めた。

クラシック戦線が終わると、若駒達は次の戦いに進んでいく。相手は、百戦錬磨の古馬達。この先、生き残るには、歴戦の猛者を打ち負かさなくてはならない。競走馬として生きるサラブレッドに、安穏とした時間は無いのだ。

世界の競馬に精通する白井は、国際GIであるジャパンカップに拘りを持っていた。
ダービーと同じ府中の2400m。ライバルは強力だが、この馬なら好勝負になる、と期待を込めて世界戦へ彼を送り込んだ。

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11月29日。第18回ジャパンカップ。小粒な面々の外国馬に対し、迎え撃つ国内勢は、各世代の最強達が揃った。

スペシャルウィークの背には岡部がいた。デビュー来のパートナーである武は、騎乗停止処分をくらい、乗ることが出来なかったのだ。ちなみにその時、武が騎乗していたのはアドマイヤベガという新馬だった。ダービーの神さんは、どうやら武のファンになったらしい。

世界のオカベと再び府中の2400mに挑んだスペシャルウィークは、前目でレースを展開した。直線、坂の下からスパートを開始したが、内へ僅かにヨレてしまう。たった数秒の蛇行もGⅠという大舞台では致命的なものになる。

岡部がスグに体勢を立て直し、自慢の末脚を改めて繰り出したが、届かず3着。もし、真っ直ぐ走っていれば、結果は分からなかったかも知れない。ヨレるスペシャルウィークの前方で、馬場のど真ん中を、真っ直ぐに駆け抜けたのはエルコンドルパサーだった。

共同通信杯で相見えるはずだった同期生は、府中の世界戦で、スペシャルウィークを屠り、ヨーロッパへ飛び立っていった。ダービー後は、どうも歯痒い結果しか残せなかった。しかし、世代の頂点から時代の頂点へ目指す戦いは、まだ始まったばかり。まずは国内を制圧し、海外。エルコンドルにフランスで借りを返す…。誰でもかかってくればいい。次なる夢が生まれた冬、彼の元へ悲しいニュースが飛び込んで来た。

12月15日。スペシャルウィークの生まれ故郷、日高大洋牧場で火災事故が発生した。火の手は、牧場にとって宝物である繁殖牝馬達を呑み込んだ。

この事故で、19頭の母馬達が命を落とした。その中には、キャンペンガールが遺した一人娘、オースミキャンディもいた。代々守り抜き、大切にしてきたシラオキの血が、牧場から消えてしまった。

全てを捧げ、昼夜問わず寄り添うホースマンにとって、馬は家族のような存在である。牧場のホースマン達は、家族を失った悲しさと悔しさに打ち拉がれた。

そんな暗闇を照らしてくれたのがスペシャルウィークだった。現代表で当時、同場のゼネラルマネジャーを務めていた小野田宏は、スペシャルウィークの事を話し合う時だけが、唯一希望に溢れていた時間だった、と語っている。

母に先立たれ、義母にも無下に扱われたあの仔馬が、自分達を鼓舞してくれる。

馬と人。言葉こそ通じないが、その間には、確かな縁が通じている、と私は思う。

自身の栄光、そして育ててくれた牧場の人々の想い。全てを背中に乗せて、スペシャルウィークは、次の戦いへ進んでいった。