時に驚いて期待し、またある時は膝から崩れ落とされ、またまたある時は、ただ泣かされた。
喜怒哀楽、良い思い出もあれば辛い思い出もある。しかし奴は、何故か憎めない奴だった。
何故かよくわからないけど憎めない馬、ペルーサを初めて見たのは2010年の青葉賞だった。デビューから無傷の3連勝、前走は皐月賞トライアルの若葉Sを制した彼は、ダービーを目標に据え、ここへ挑んできた。かつてカジノドライヴに壮大な夢を託していた私は、カジノと同じ山本英俊氏の服色を纏った、この栗毛のゼンノロブロイ産駒に新たなモノを見出そうと考えた。
新緑が眩い府中で、綺麗な馬体をキラキラと輝かせターフを駆け抜けたペルーサは、2着を4馬身差突き離す圧巻の走りを披露し、主役としてダービーへ進んだ。
ヴィクトワールピサとペルーサ。
ダービー前夜、この2頭の駿馬に託すことにした私は、青色のマークカードを取り、1着の欄にピサ、2着の欄にペルーサを据え、最後に全通りをマークした。普段、100円が110円になっただけで、ワーワーと騒ぐチッポケな奴が、宇宙空間に浮かぶロケットから何も纏わず大気圏へ飛び出す覚悟で買った、三連単2頭軸総流し馬券。一方は皐月賞馬、もう一方は青葉賞をバケモノじみた走りでV。十中八九この馬券は取れる、と確信していた。
第77回日本ダービー。恐らく、死ぬまでこの年のダービーは忘れないだろう。
選び抜かれた2007年産まれの17頭が、ダービーの舞台へ飛び出した。ところが、スタートで大きく失敗した馬がいる。
5枠9番、ペルーサだ。
騒めく府中から遠く離れたパークウインズ阪神で私は崩れ落ちた。おぉ…ペルーサよ…。誰が決めたか知らない「ダービーポジション」という言葉が、泣き面に蜂の様に襲いかかる。
1コーナー前で、すでに半ベソ状態の私など馬達の眼中にない。クレイグのアリゼオを先頭に、レースはユッタリとしたペースで進んでいた。
『決め手勝負になる流れで迎えた勝負所、大外からペルーサ、内を突く構えを見せたヴィクトワールピサ。岩田がインをこじ開け、横山が外から猛追!』の風景を、私は思い描いていた。しかし、内田のエイシンフラッシュ、後藤のローズキングダムが至高の戦いを演じているシーンに、彼らの姿はなかった。
その日、どうやって帰ったかハッキリと覚えていないが、今こうして下手くそな文章を書いているので、少なくとも生きて帰ったことは確かだ。ちなみに、この日以来、怖くて三連単を買っていない。毎度、本命の単複を握りしめ、石橋を叩きながら、いつも通り小さな馬券を買っている。
私が生きたか死んだか、なんてどうでもいい。ペルーサである。無敗でダービー制覇、という夢が叶わなかった彼の歯車は、ここから狂い始める。
出遅れ。
コンマ何秒の差を争う競馬において、出遅れというものは致命的である。ペルーサのエリート歯車は、この出遅れ癖によって、無茶苦茶になってしまった。
ダービー以降、馬場で競うライバル達、そしてゲートが彼の前に立ちはだかった。馬なり調教という概念を日本競馬界に確立し、数多の名馬を競馬場へ送り込んだ管理トレーナー藤沢和雄師が、手を替え品を替え、様々な方策を実行したがなかなか改善しない。しかし、ペルーサは例えスタートでヤラカシても、常に全力を出そうと必死に頑張っていた。この健気さに胸を打たれたファンは、いつしか彼に対し深い愛着を持つようになった。
強さから抱く好意ではなく、憐れみから抱く好意は、ペルーサからすれば屈辱的だったかも知れない。悶々とする状況下で久々にらしさを見せたのは、2011年の天皇賞秋。横山典弘に導かれた彼は、33.9の最速上がりを記録し3着に食い込んだ。
まともに走れば、やはりこの馬は強い。
針の穴くらいの大きさだったが、ペルーサに兆しが見え始めた。希望を持って挑んだジャパンカップ。人気は3番人気。私は、彼の単勝にありったけ注ぎ込んだ。しかし、結果は16着。最下位だった。
ダービーに続き、またしても膝から崩れ落とされた。ただ、そこに怒りの感情はなく、まあ仕方ないな…というものだった。知らず識らずの裡に、私も彼の熱狂的なファンになっていたようだ。
人も馬も、老いには勝てない。ダービー優勝候補と言われ輝いていた頃がセピア色の思い出に変わりつつあるペルーサに喘鳴症が襲いかかったのは、2012年の安田記念で18着に敗れた後だった。体にメスを入れられ、1年と8ヶ月、彼はターフから離れた。
無事に復帰し、戻ってきた競馬場には、かつて覇を競い合ったライバル達はもういなかった。ピサもフラッシュもダムールも…みんな競馬場を去り、父としての生活を始めていた。
最強世代のプライドを独り背負いレースへ挑むペルーサ。しかし、勝利の女神が彼に微笑むことはなかった。
圧巻の走りを見せた青葉賞から、5年3ヶ月と8日の歳月が流れた2015年8月8日の札幌競馬場。この日のメインレース、札幌日経OPに彼の姿はあった。
私は、この時のペルーサに土方歳三の姿を重ねてしまう。新撰組の鬼の副長として京都で恐れられた土方は、幕府が滅び、賊軍の汚名を着せられても、最後の最後まで武士として戦い続け、1869年、五稜郭で戦死した。
もうこれ以上、先に競馬場はない。最北端まで追い込まれたペルーサは、過去の栄光を捨て去る作戦に打って出る。
スタートは決まった。ペルーサフリーク達は、この時点で彼を褒めてやりたい気持ちで溢れかえった事だろう。杉原のグランデスバル、津村のタマモベストプレイの後ろ、3番手くらいにクリストフはペルーサを付けさせた。1周目のホームストレート、タマモベストプレイがマイペースに持ち込もうとした時、ペルーサはハナを奪い取った。後方から鋭く差す、というスタイルで、これまで駆け抜けてきた馬が、8歳にして戦法を変える。奇襲か、それとも最期くらい先頭で走らせてやりたい、という思い出作りか…。
2周目2コーナーまでにリードを広げたペルーサ。気持ちよさそうに札幌の馬場を疾走する。番手以降のマークはそこまでキツくない。このまま行けばハマる。私は、福永のアドマイヤフライトの単勝を握っていたが、自分の馬券より、今もう一度光を…と逃げる高齢馬に目を奪われていた。
3コーナー手前で、クリストフは後続を引きつけた。番手以降の馬達が、栗毛の爺さんに襲いかかる。しかし、先頭は頑なに譲らなかった。あくまで引きつけただけ。
ペルーサが先頭で直線に入る。クリストフが、満を持してスパートを開始すると、彼は二の脚を使って突き離し始めた。
ペルーサ先頭。外からタマモベストプレイが津村の激に応えてしぶとく伸びてきた。
やめろ!津村!堪忍したってくれ!
アドマイヤフライトには申し訳ないが、最後の200m付近から、私はペルーサしか見ていなかった。2回目のウイニングポストをトップで駆け抜けたのは、栗毛の爺さん、かつてダービー最有力候補と言われたペルーサだった。
クリストフは、優しく彼の頭を撫で、久々の勝利を挙げた老雄を祝福した。
5年3ヶ月と8日ぶりの勝利。これはJRAの記録の中で歴代最長の記録である。この記録的な勝利を、私はパークウインズ阪神の指定席で見ていた。彼がトップでゴール板を通過した時、隣に座っていた知らない兄ちゃんと、騒ぎながら握手を交わし、その勝利を祝った。ちなみに、2人とも馬券はスっている。
私達だけではない。周りにいた馬好きの連中も、方々でペルーサが勝ったことに喜びの声をあげていた。
その歓喜のVから9ヶ月後の2016年7月1日、彼はターフに別れを告げた。重賞成績は青葉賞の1勝のみだったが、新聞は写真付きで彼の引退を報じた。この部分からも、彼がいかに大衆から愛されていたか、ということがよく分かる。
果たして今度は種牡馬として、どの様な子供達を送り込んでくるのだろうか?親父同様、出遅れ癖のある産駒が現れた時は、また笑って許してやろう。