【追憶の名馬面】アグネスフライト - 1/3

ダービージョッキーの称号。

レディ、フローラを含む、数多の名馬を導いてきた河内に、一つだけ欠けていた、ダービーというピース。職人気質な河内だから、若駒を任される度に、分け隔てなく大舞台を意識してレースに挑んでいたと思います。

フライトも同じく、牡馬やからダービーやな、と期待されたことでしょう。レディやフローラの血が流れていても、河内は他の馬達と同じく、彼を気にかけた。しかし、胸の内では「この馬でダービーを勝ちたい。」と、強く意識していた、と思います。

競馬は絵空事のように上手くいかない。けど、たまに全てが上手くいって、至上のドラマを見せる時があるのだから、全く手に負えない娯楽です。

2000年、同期生から遅れて、京都でデビューの日を迎えたアグネスフライトの評価は、低かった。サンデー産駒で名家の母系となれば、モロ被りの人気に推されるのが当たり前ですが、彼は6.1倍の2番人気でした。

しかし人気なんてものは、人が勝手気儘に拵えたものであって、馬には関係ないこと。フライトも、自身の評価が低いことに、一切の関心を抱いていなかった。低評価を下した人々の目を開けるかの様に、デビュー戦を勝利で飾る。時期こそ遅いものの、サラブレッドにとってデビュー戦Vは、重賞制覇と同じくらいステータスになる金看板です。

金看板を背負ったアグネスフライトは、約束の地、クラシックの大舞台を目指し、皐月賞トライアルの若葉Sに挑むも惨敗。「最も速い馬」の称号を手に入れる権利を手にすることは出来なかった。

それでもまだダービーへの道は途絶えたわけではない。皐月賞ウィークの土曜日、阪神で行われた若草Sを制し、堂々とオープン馬になりました。

その翌日、日曜日の中山で行われた皐月賞を制したのは、あの青鹿毛の少年、エアシャカールだった。河内の弟弟子、武豊に導かれ、見事に姉の無念を晴らした彼は、ダービー、更には世界へと視線を向けた。

一方、栗色の少年は、西のダービー最終便、トライアルの京都新聞杯に挑んだ。若草を食み、逞しくなったフライトは、ここも見事に制覇。重賞タイトルと、念願のダービーチケットを手に入れた。

役者が揃い、舞台は整った。いつの時も、どんなメンツであっても胸が高まるダービーがやって来る。

栗色の少年か?青鹿毛の少年か?

兄弟子か?弟弟子か?

雌雄を決する第67回日本ダービーのゲートが開いた。

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