【追憶の名馬面】ジャングルポケット
明けて2002年。
大目標をフランスの凱旋門賞に定めた、ジャングルポケット一行は、武豊とコンビを組むことになった。ところが、始動戦と予定していた阪神大賞典の直前、武が落馬事故により重症を負うアクシデントが発生。陣営はオリビエと同じく、当時、短期免許で来日していたミルコ・デムーロに、ジャングルを託すことにしたが、今度はミルコが騎乗停止処分を受ける。
いくら年度代表馬でも、裸馬では競馬に挑めない。菊花賞まで主戦を務めた角田の再登板も囁かれたが、結局、兵庫県競馬の生き神様、小牧太が手綱を取り、阪神大賞典に挑むことになった。
私は、もしかすると角田が乗るのでは?と思っていた。しかし、兵庫に暮らす者としては、小牧がダービー馬に騎乗する。という、赤飯でも炊きたくなる様な嬉しい状況だったので、当時はガキながら複雑な心境で、この阪神大賞典を見ていたことを覚えている。
敵は、90年代最後の菊花賞馬、ナリタトップロードただ一頭、と定め、徹底的なマーク戦法を敢行した。しかし、3歳時から自身を負かし続けていたライバルが去り、再びの栄光を目指さんとする、トップロードの影すら踏めず、2着に敗れた。
翌週行われた日経賞では、同期のマンハッタンカフェも大敗を喫した。
自身が火を点け、良きライバルが、暮れの中山で燃え上がらせた世代交代の焔は、小さな灯火程度だったのだろうか?
何となく歯車が噛み合わない状況の中、医学の常識を超えて、競馬場に戻ってきた武豊を背に、第125回天皇賞春へ挑んだ。外から強烈な伸び脚を繰り出すも、マンハッタンカフェを捕らえきれず2着。あの焔は、やはり煌々と燃え盛るものだった。ということを証明出来たが、彼に勝ち星がもたらされた訳ではなかった。
しかし、トップレベルの力は示せた。この無念は、イギリス、或いはフランスで晴らす。と、前を目指し進もうとした時、彼の身体が悲鳴を上げた。
宝塚記念を目指し調整中に、脚部不安を発症。春のグランプリ、そして海外挑戦も泡沫の彼方へ消えていった。
療養し、秋。
復帰戦となったここより、オーナーの名義が齊藤から吉田勝己に変わった。かつてフジキセキの幻想を重ねられた、緑、黄縦縞、黒袖黄一本輪の勝負服を脱いだジャングルポケット。私は、衣替えした彼を見て、無性に寂しくなったことを覚えている。ノーザンの勝負服でもジャングルポケットに変わりはないのだけれど、何故か全く別の馬に見えて仕方がなかった。
また、この年の秋は府中が改装工事により使用できなかった為、天皇賞秋もジャパンカップも中山で施行された。府中を得意としていた彼にとってこの工事は不運だったと思う。
もしも通常通り府中開催ならジャパンカップを連覇していたかも知れない。
ジャパンカップ5着、有馬記念は3コーナーから捲って行ったが、直線は伸びず7着に敗れた。
レース後、再び腰部に筋肉痛、更に左前脚の蹄球炎にも見舞われたジャングルポケットは、2003年1月に引退を表明した。
同月、京都競馬場にて彼の引退式が執り行われた。ターフに立つ最後の日、彼を待っていたのは齊藤の勝負服を纏った角田晃一だった。
齊藤四方司、渡辺栄、星野幸雄、角田晃一。ダービーで、共に歓喜の瞬間を味わった男達に囲まれ、ジャングルポケットは、北の大地へ旅立って行った。
父になった彼は、実にバラエティ豊富な子供達を、私達の前へ送り込んできた。ズドンと太く逞しい流星を持ったオウケンブルースリ、青いブリンカーを纏ったジャガーメイルといった息子達は、長距離路線で活躍。
アヴェンチュラとトールポピーは、父に牝馬クラシックのティアラを贈った。
更にジャングルポケットの荒々しい血は、南半球まで流れ、ジャングルロケットというニュージーランド産馬が、自国の重賞レースを制し、父の名を世界中へ知らしめた。
ダービーの日、観衆の前で彼は叫んだ。
俺はジャングルポケットだ!!
それは幻でも夢でもない。現実の世界で示したものである。ならば、その名を、現実として永遠に憶えておいてやろう。
君はジャングルポケットだ。フジキセキじゃない。