【馬ニアな話】黄金の魅力
日本競馬界を根底から変えた大種牡馬、サンデーサイレンス。一期生達からダービー馬を誕生させたそのDNAは、ホースマン、そして我々をファンも熱狂させた。
サンデーサイレンスの子ならダービーも!天皇賞も!有馬記念も!と夢を見た。馬主さんと言われる親分達は、それまで夢の世界でしか考えられなかった眩い名誉を現実にすべく、サンデーサイレンスの子を求めた。
しかし、サンデーの子とて負ける時はあっさり負ける。勝てなかった者、一度も競走馬として競馬場に足を踏み入れられなかった者も数多くいるのだ。あくまでも、夢が叶う可能性が高いというだけで、必ずダービーや有馬記念を勝てる保証はされていない。
サンデーサイレンスに世界の大種牡馬として名を馳せていたヌレイフの肌を掛け合わせて生まれた仔馬がいた。遮光率の高いサングラスをかけても、眩しさすら感じるような超良血馬だ。まだこのトネがニキーヤの99と呼ばれていた頃、取り巻く人々はおそらくダービーを強く意識していたと思う。
金色に輝く栗毛の馬体、その毛色と同じく眩い魅力を生まれながらに持っていたトネっ仔は黄金の魅力という意味を持つゴールドアリュールという名を与えられた。
立派な名前を貰い、栗東の池江泰郎厩舎に入厩したゴールドアリュールは2001年11月の京都でデビュー。初陣の舞台は芝の1800mだった。クラシックを意識された出陣だ。結果は2着に敗れたが、中2週の間隔で再び同じ舞台に挑み初勝利をあげる。ここから黄金の道を…と思われたが2勝目は年が変わった2002年4月だった。舞台は阪神の平場条件戦で、ダートの1800m。この時期といえばクラシック候補の馬達は皐月賞の舞台に立っていなくてはならない時期だが、やや後れをとったゴールドアリュールは京都で行われるダートのオープン競走、端午Sを勝利し3勝目を挙げ、何とかダービーへ間に合ったかたちとなった。
バリバリの良血馬がダートで勝ちを積み重ねクラシックへ。王道を行く馬達と比べれば少し格が落ちる道のりだが、このダート実績は後に彼を待ち構えている輝かしい未来への鍵だった。
夢に見たダービーは、2勝目と3勝目をもたらしてくれた上村洋行を背に挑んだ。直線ではそれが現実になると思わせる瞬間があったが、大外から戦車の如く逞しい脚で伸びてきたタニノギムレットに及ばず5着に敗れた。勝てはしなかったが、99年に生を受けた9679頭のサラブレッドの中で5番目に強いと考えれば、立派な成績だと思う。
一つの目標を終えたゴールドアリュールとホースマン達は、目先を芝からダートへ変えた。2002年7月4日、ゴールドアリュールの姿は公営大井競馬場にあった。ここで開催される3歳ダート決定戦、ジャパンダートダービーに挑むことになる。鞍上が上村から武豊へと替わったこの一戦で、栗色のサンデー産駒は驚くようなパフォーマンスを披露することになるのだった。
レースはやや押して主導権を取りに行く競馬で進められた。外からは的場文男が手綱を握るノムラリューオーが競る素振りをチラつかせたが、1角までに振り切りハナに立った。ここからは悠々独り旅。4角を迎えても競りかける、或いは並びかける馬はいなかった。余裕たっぷりで武が追い出すと、グングンとリードを広げていった。付いて行こうとした藤田のエイシンセダンは潰され、後方から飛んできた石崎隆之のプリンシパルリバー、秋山のインタータイヨウは影も踏めなかった。
逃げて10馬身のV。前年、志半ばで錨を下ろしたクロフネを彷彿とさせる圧巻の走りであった。道は開けた。ここからゴールドアリュールは自身に用意されていた輝かしい未来へと爆走して行く。
夏を越し秋。同期生達が菊花賞、或いは天皇賞秋へと進路を悩む中、彼は岩手の盛岡にいた。挑むレースは当時交流GIだったダービーグランプリ。ダービーは生涯一度しか走れない貴重なレースだが、ゴールドアリュールは、東京優駿、JDD、ダービーGPと3度ダービーの舞台に立った。全く幸せな馬である。
馬体重は大井のレースから12kg減ったが、そんなものは関係なかった。ここでもスタートからハナに立ち、後に東京大賞典を制するスターキングマンをいとも容易く10馬身突き放して快勝。2つ目のダービータイトルを手に入れたのだ。私はこの時、勝手にドバイやアメリカで大差勝ちをするゴールドアリュールを想像した。