拝啓、アグネスフライト様
何を思ったのか、ある時、自分が読みたい競馬の話を書きたくなった。書きたくなった、とは言うものの、秀でた文才も知識も無いので、思いついた言葉と知っている情報だけを繋ぎ合わせて、書き始めました。
最初のうちは、目も当てられない稚拙な文章でしたが、回を重ねるごとに、まぁ読めなくは無いな、と、ほんの少しだけ納得できるものが書けるようになりました。馬的に例えるなら、晩成型といったところでしょうか?
これまで書かせていただいたサラブレッド達を数えると、短編長編を合わせ、三桁は超えている。もし、彼らがいなければ、私の脳みそは生涯腐ったままだった、と考えると、感謝の言葉しかありません。ありがとう、お馬さん。
そんな我流競馬エッセイで、初めて取り上げた馬は、アグネスフライトでした。久しぶりに読み返してみると、フライトが耳背負って怒る様な酷い出来栄えで、読んでいて恥ずかしくなりました。僅かにレベルアップした今、そのアグネスフライトの足跡を、改めて振り返り、アグネスフライト?ああ"タキオンの兄貴"か。と、弟君が先に浮かんでしまう皆様にも、フライト兄の魅力を伝えたいと思います。
父は大種牡馬サンデーサイレンス、母は1990年の桜花賞を制したアグネスフローラ、祖母には、こちらもアグネスの冠を戴き、1979年のオークスを制したアグネスレディ。アグネスの結晶とサンデーサイレンスの荒々しい血が融合し、1997年に産まれたフライトは、祖父ロイヤルスキーと同じ栗色の被毛に包まれた少年でした。アグネス3世代クラシック制覇へ。栗色の少年は、名家を継承する使命を背負わされた。
時同じく、同じ社台ファームで、同じサンデーサイレンスを父に持つ少年が産まれた。姉にクラシックで惜敗の涙を流し続けたエアデジャヴーがいる、青鹿毛の少年には、大舞台で姉の無念を晴らす使命を背負わされた。栗色の少年と青鹿毛の少年。後に死闘を演じることになるとは、産まれたばかりの無垢な彼らが知る由もなかった。
1999年、彼は競走馬アグネスフライトとして、母を育て上げた栗東の長浜博之厩舎へ入厩しました。長浜厩舎とアグネス。となれば、馬上にいる男は1人しかいない。
河内洋。
馬乗りの技術、社会人としての振る舞い…と、全ての人が兄貴の様に慕う男が、憚りもなく欲を剥き出して手に入れたいと願うものがあった。
ダービージョッキーの称号。
レディ、フローラを含む、数多の名馬を導いてきた河内に、一つだけ欠けていた、ダービーというピース。職人気質な河内だから、若駒を任される度に、分け隔てなく大舞台を意識してレースに挑んでいたと思います。
フライトも同じく、牡馬やからダービーやな、と期待されたことでしょう。レディやフローラの血が流れていても、河内は他の馬達と同じく、彼を気にかけた。しかし、胸の内では「この馬でダービーを勝ちたい。」と、強く意識していた、と思います。
競馬は絵空事のように上手くいかない。けど、たまに全てが上手くいって、至上のドラマを見せる時があるのだから、全く手に負えない娯楽です。
2000年、同期生から遅れて、京都でデビューの日を迎えたアグネスフライトの評価は、低かった。サンデー産駒で名家の母系となれば、モロ被りの人気に推されるのが当たり前ですが、彼は6.1倍の2番人気でした。
しかし人気なんてものは、人が勝手気儘に拵えたものであって、馬には関係ないこと。フライトも、自身の評価が低いことに、一切の関心を抱いていなかった。低評価を下した人々の目を開けるかの様に、デビュー戦を勝利で飾る。時期こそ遅いものの、サラブレッドにとってデビュー戦Vは、重賞制覇と同じくらいステータスになる金看板です。
金看板を背負ったアグネスフライトは、約束の地、クラシックの大舞台を目指し、皐月賞トライアルの若葉Sに挑むも惨敗。「最も速い馬」の称号を手に入れる権利を手にすることは出来なかった。
それでもまだダービーへの道は途絶えたわけではない。皐月賞ウィークの土曜日、阪神で行われた若草Sを制し、堂々とオープン馬になりました。
その翌日、日曜日の中山で行われた皐月賞を制したのは、あの青鹿毛の少年、エアシャカールだった。河内の弟弟子、武豊に導かれ、見事に姉の無念を晴らした彼は、ダービー、更には世界へと視線を向けた。
一方、栗色の少年は、西のダービー最終便、トライアルの京都新聞杯に挑んだ。若草を食み、逞しくなったフライトは、ここも見事に制覇。重賞タイトルと、念願のダービーチケットを手に入れた。
役者が揃い、舞台は整った。いつの時も、どんなメンツであっても胸が高まるダービーがやって来る。
栗色の少年か?青鹿毛の少年か?
兄弟子か?弟弟子か?
雌雄を決する第67回日本ダービーのゲートが開いた。