デンマークの童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの作品に、「みにくいアヒルの子」という作品がある。
アヒルの群れの中に混ざった何とも醜い雛鳥が、実は白鳥の雛鳥だった。という、世界中のチビっ子が一度は必ず目を通す、あの有名な物語である。何の気なしにふとこの物語を思い出した私は、アンデルセンが言うほど白鳥の雛鳥は醜いものなのか?と思い、調べてみた。
見てみると、雛鳥特有の愛くるしさはあるものの、羽毛の色が灰色の様な暗い色で単体でみると確かにこの姿から純白の美しい白鳥を想起することは難しい。この外貌でいわゆるヒヨコカラーのアヒルの雛鳥の群れの中に混ざれば除け者にされるのも無理は無かろう。と真夜中に独り合点した。
ここまで思索を進めたところで、みにくいアヒルの子現象は我が愛する競馬界でも目撃する現象である、という事に気がついた。
競馬をやっていると何年かに一度の周期で、カビの生えたような傍流の血筋の馬がピカピカの良血馬達をバッタバッタと薙ぎ倒す爽快なシーンを競馬を目撃する。その度にカビの生えた薄汚い私は生きる勇気を頂いている。ありがとう、お馬さん。きっとアンデルセンあたりなら「さびた血筋のおウマさん」という童話を拵えることだろう。
例えばどんな馬がいるだろう?と、鳥小屋の様な小さい自室で再び思索を廻らせると、キンツェムという馬が真っ先に思い浮かんだ。
今回は、日本を飛び出し、時空も遡って、このキンツェムという馬に触れてみたいと思う。
時は1874年。日本が天下泰平の明治の世になって7年目を迎えたこの年に、遠く離れたハンガリーでキンツェムは産まれた。
父は英クラシック戦線で活躍し、ジュライSという6Fの重賞などを制したカンバスカン。母は地元の1000ギニー(日本でいう桜花賞)を制したハンガリー産まれのウォーターニンフ。その母系は、オークス5着のザマーメイドなど英国の血がシッカリと受け継がれた由緒ある血統だった。
新政府に不満を持つ士族達が江藤新平らをリーダーに巻き起こした佐賀の乱があった年、彼の地ではもうオークスやstakesといった今日でも馴染みのある競馬用語が使われている。サラブレッドの能力が向上し競馬先進国のグループに入っている日本だが、この様な歴史を知ると世界との間には競馬が続く限り永遠に埋まらない溝がある、という事を痛感させられる。
キンツェムを生産したエルストン・フォン・ブラスコヴィッチというホースマンは、自分が生産した馬達を一人の買い手に一括して売却する経営方針を採っていた。1875年、キンツェムを含む7頭の1歳馬達は、とある貴族に売却される話がまとまっていた。ところがこの貴族さんは、キンツェムともう一頭の牝馬の引き取りを拒否。彼の相馬眼で見たところ、キンツェムは線が細く、毛色も暗い栗毛で、走る資質がないという酷い評価だった。
引き取り手が現れないのなら仕方がない。ブラスコヴィッチ自らがオーナーとして所有することになった。この貴族さんが酷評を下す一方で、キンツェムに惚れてしまった人もいた。
キンツェムは1歳になったばかりの頃、誘拐事件に巻き込まれる経験をした。キンツェムを連れ去った犯人は、「もっと良い馬がいたのになぜこの馬を?」というポリスの取り調べに対し、こう答えている。
「見てくれが良くないからこそ、体力、能力、勇気に優れているのだ。」
富のものさしで、先の貴族と比べると、この犯人は相手にもされない人物かもしれないが、物の本質を見抜く力で比べるとこの犯人氏の方が数段上だろう。目から入る情報は鵜呑みにしてはならない。必ず脳ミソで編集し、答えを出さなければ何も見えなくなってしまう。罪人を褒めるのもどうかと思うが、実に天晴れな目を持った誘拐犯である。
1876年6月2日、ブラスコヴィッチの服色で競馬場に現れたキンツェムは、ベルリンの5F戦でデビュー戦Vを飾ると、10月末まで破竹の10連勝。ただの連勝ではなく、全て違う競馬場で挙げたというのだから恐れ入る。ハンガリー、ドイツ、オーストリアと東ヨーロッパ全土を股にかけて走り回った。彼女の快進撃が始まったのだ。
この若駒離れした走りを披露できた要因として、キンツェムの輸送耐久能力が抜きん出いたことが挙げられる。当時の輸送手段は、専ら貨物列車による輸送が主なものだった。ガタンゴトンと揺れる貨物の旅を、キンツェムは好んだと言われている。
列車が到着すると「乗ります!」と嬉々とした嘶きを一声発し、誰の手も煩わせることなく自ら進んで乗り込んだらしい。現代用語で言い表すと、乗り鉄の類に入るだろう。
後に紹介する仲間達も一緒に乗り込んだことを確認すると、横になり目的地に到着するまで熟睡。何とも面白い馬である。
無敗で2歳シーズンを終え、翌1877年。クラシック戦線に挑んだ彼女は、母も制したハンガリーの1000ギニー、オーストリア・ダービーとタイトルを独占。秋になっても快進撃が止まることはなく、バーデン大賞、ブダペスト・セントレジャーとオークスもV。このシーズンは17戦して17勝。前年の星と合算すると、デビューから27連勝ということになる。
2歳時は5〜7Fと短距離戦で勝ち星を重ねたが、少女からお姉さんに成長したキンツェムは、その適性を無限大のものへ昇華させていた。
先に触れたレースの距離を順に記していくと
1000ギニー 1600m
ダービー 2400m
バーデン大賞 3200m
セントレジャー 2800m
オークス 2400m
日本的に例えれば、3歳牝馬が桜花賞、天皇賞春、ダービー、オークス、有馬記念を走って、全て勝つということになる。古馬ならまだしも、幼い3歳牝馬には、土台無理なローテーションだ。それを乗り鉄のハンガリー娘は成し遂げたのだ。
その走りを見てみたい!と望んでも、130年も前のレースなのでもちろんレース映像なんてものは無い。故に、この馬の走りをクリアに表現することは出来ないが、様々な史料を調べてみたところ、走りのフォームと癖を知ることが出来た。
連戦連勝を支えたその走りは、首をグイッと下げ地面を這うような走りだったと伝えられている。日本の馬でイメージするならタイキブリザードが近いかも知れない。
列車好きのエピソードが示す通り、頭の良かった彼女は、10馬身以上離して勝つことはなかった。ハナ差でも大差でも勝ちは勝ち。無駄な労力は使わない主義を貫いた。
その代わり、レース直前まで大好物のヒナギクを探すことに全力を懸けた。草摘みに夢中で、何度かスタートを失敗しているが、成績が示す通り、ヒナギク採りの影響は全くなかった。
花しか咲かなかった青春時代が終わり1878年。かつて見た目の醜さから相手にされなかった馬は、ウマキチ達の心を鷲掴みにし、人々はヨハネス・ブラームスの名曲「ハンガリー戯曲」に掛けて「ハンガリーの奇跡」という愛称を贈った。
加熱するキンツェムフィーバーを、あの貴族さんはどの様な心境で見ていたのだろうか?また、あの泥棒氏は小汚い酒場で何を語っていたのだろうか…?競馬とは直接関係無いが、この部分は気になるところである。
英雄と化した彼女は、更に強さを増してゆく。4月22日のウィーンで行われたエレフヌンクスレネン(ドイツ圏のレース名は実に愉快だ)から始動すると、5月30日のウィーン、シュタット賞まで9連勝。
27連勝した馬が、9連勝したところで別段驚く様な話ではないが、1ヶ月の間に9連勝である。
恐る恐る、その内訳を調べると、中3日(!)や中2日(!!)といった気狂い染みたローテを歩んでいた事が分かった。
これで飄々と勝ってしまうキンツェム。いやはや、もう言葉もあるまい…。
東ヨーロッパには相手なる様な馬はいない。
キンツェム一行は、遂にイギリスやフランスといった西ヨーロッパ征服へ進軍を開始した。
最初の遠征地はイギリスのグッドウッド競馬場。ここで行われたグッドウッドカップを勝利し、海を渡ってフランスのドーヴィル競馬場へ。
自国に対し誇りを持つフランスのウマキチ達は、意地になってハンガリーの娘を一番人気に支持せず、地元馬のプールデッセデプラーンを一番人気に推したが、37連勝まで記録を伸ばしたキンツェムには敵わなかった。
ヨーロッパ全土に、その強さを知らしめ、本拠地である東ヨーロッパへ凱旋する時、事件が起こる。
ドーヴィルからドイツへ帰る汽車への乗車を泣き喚いて拒否した。大好きな貨物列車を前に、憚りもなく泣き叫んだ理由は、いつも一緒の仲間の姿が見えなかったからだ。
キンツェムにとって唯一無二の友、それは一匹の猫だった。どこへ行くのにも友である猫を背に乗せ、一緒に各地を回った彼女にとっては、大事件である。悲痛な叫びを聞いた猫氏は、急ぎ相棒の元へ駆け寄り、一行は無事に帰路へ着いた。
草と肉、体の大小と全ての面で異なる性質を有している猫と馬だが、どういう訳か仲が良い。
波長が合うのか?こればかりは、本人達にしか分からない。
彼女が心を許していたのは、猫氏だけではない。生みの親であるブラスコヴィッチには、勝った時は褒めておくれ、と望んだ。愛馬にお願いされた彼は、キンツェムが勝つたびに、花を一輪、シャドーロールに差し込んで祝福してあげた。
とあるレースを勝った時、ブラスコヴィッチが彼女の元へ駆け寄るのが、僅かに遅れた事があった。彼が来る瞬間まで、キンツェムはその場で鞍をつけたまま微動だにせず待っていたという。(彼女自身が、脱鞍を拒否した。)パパに甘える娘、というほのぼのとした光景が、このエピソードから読み取れる。
親友、優しいパパの他に、彼女には相思相愛のフィアンセまでいた。フランキーという厩務員とは、互いに好意を抱く間柄だったらしい。これについても、一つエピソードを紹介しておこう。
寒さが厳しい時期、キンツェムと猫、そしてフランキーは、いつもの様に貨車の中で揺られていた。この時、フランキーは毛布がなかったため、体を丸めて寒さを凌いでいた。それを見たキンツェムは、自分が着ていた馬服を脱ぎ、最愛の人に掛けたという。
どこで聞いたか忘れてしまったが、馬という動物は、仲間が困っていると、それを助ける習性があるらしい。なるほど、フランキーとキンツェムは、ヒトとウマという間を超え、固い絆で結ばれていたのだろう。
こんなにも愛らしい彼女がいたので、フランキーは生涯独身で過し、名を名乗る時もフランキー・キンツェムと言っていたので、彼の本名は、誰も知らない。これらのエピソードの真偽は定かではないが、お菓子の家を信じていた頃を思い出して、胸に留めておきたいと思う。
1879年、5歳まで現役を続けたキンツェムは、結局負けの悔しさを知ることがないまま競走馬生活に別れを告げた。
通算成績54戦54勝。この記録は、プエルトリコのカマレロという馬に破られるまで世界一の記録だった。母としては5頭の子供を授かっている。中でも初仔のブタジェンジェは、その血脈を伸ばし、2012年に、若き天才騎手ジョセフ・オブライエンを背に英ダービーを制したキャメロットを世に送り出している。私は、ジョセフとキャメロットが好きで、彼らが現役の頃は、英語も分からないのにネット中継を見ながら応援していた。その愛する馬にキンツェムの血が流れていると知った時、より一層好きになった。いつかオーストラリアまで会いに行きたいものだ。
1887年3月17日。
キンツェムは13歳でこの世を去った。この日、街中の教会では終日鐘が打ち鳴らされ、全ハンガリー国民が彼女の死を悼み、悲しみに暮れた。
キンツェムとはハンガリー語で「私の宝物」という意味である。名の通り、彼女はハンガリー、いやヨーロッパ競馬の宝物になった。
しかし、キンツェムにとっての宝物は、恐らく無敗で掴んだ栄光ではなく、猫とフランキーと一緒に貨車で過ごした日々とブラスコヴィッチから貰った54の花束だった、と私は思う。