【追憶の名馬面】負け続けのヒロイン、ハルウララ

人類皆平等、というが顕微鏡で仔細に観察すると大なり小なり差は存在している、と考えている。この差に、勝った負けたを見出した時、ある者は、更に上へ、またある者は、負かされた相手を潰そうと燃え上がる。またある者(私)は、クソだな。と鼻をほじりながら、それらをぼんやり見る。浮世に存在する差は、全て埋められる様に出来ている。やる気があればの話だけど…。

競馬は優勝劣敗を大原則に、遥か昔から歴史を紡いできた。1着だけが栄誉に浴し、2着以降は、例え1cmしか差がなかったとしても全て敗者となる。

馬券も買わず、ボーッとレースを眺めていると、私は人間で良かったと実感する時がある。もし、自分がサラブレッドとして生を受けたなら、辿るルートから行き着く場所は決まっているだろう。鬼のように厳しいサラブレッドの世界。彼らに叱られるかもしれないが、この厳しさも、競馬の魅力の一つだと思う。

しかし、浮世は右から左、或いは左から右が全て正しいというわけではない。ごく稀に、全く奇天烈な方向にある事が、正解に進化する事がある。そして、これらは得てして大衆の気持ちを鷲掴みにし、一つのムーブメントを巻き起こす。

この不思議な現象が日本競馬界に起こったのは2003年。競馬の大原則、優勝劣敗の概念をぶち壊す馬が高知に現れた。名マイラー・ニッポーテイオーの血を受け継いだフィリー、ハルウララ。ゾウさんやキティちゃんの刺繍が施された手作りのメンコをいつも纏っていた、この小さな牝馬が、一つの競馬場を救い、全国を巻き込む一大ブームを巻き起こした。

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1996年、北海道の三石で産まれたハルウララは、所有してくれるオーナーに出会うためセリ市へ出た。しかし、買い手は誰一人現れることはなかった。主取りとなってしまったウララは生産者である信田牧場が自ら所有する形で高知競馬の宗石厩舎に預けられた。

デビューは1998年の11月。5頭立てのレースに挑み5着。ビリだった。その後も大体、月2走のペースでレースに挑んだが、ビリ、ブービー…と上位へ食い込むことは出来なかった。初めて馬券圏内に入ったのはデビュー7戦目の1999年2月27日。徳留康豊の騎乗で 8頭立てのレースに挑み3着に入った。

しかし、負けは負けである。この場合、3着に入ったというよりデビュー7連敗と言われる方が多いだろう。

一旦浮上を見せかけたものの、その後も再び凡走を繰り返した。同じく徳留の騎乗で、5月にもまた3着に入ったが、ウララに勝ち星は舞い込まない。春も夏も休みなく走り続け19戦目。今村賢治の手綱に導かれ、クビ差の2着に食い込んだ。1着とのタイム差は0.0秒。もう勝利はすぐそこまで来ている。

あと一踏ん張り…あと一踏ん張りすれば、待望の白星を手に出来る。

トップでウイニングポストを通過する瞬間を夢見てウララはまた進みだしたが、彼女が進むたびに白星は少しずつ離れていった。ついには3着も拾えない。それでも、彼女は競馬に挑み、小さな高知の馬場を疾走した。しかし、いつ出ても勝てない馬を、ファンは気に留めるはずもなく、ウララは独り連敗街道を寂しく走るだけだった。

そんな孤独な連敗ホースを、マイクロフォン前から一人の実況アナウンサーが見ていた。

橋口浩二。

ラジオのDJから競馬実況アナに転身した彼は、そのマルチな才能を駆使して高知競馬の盛り上げに奔走する一人だった。いつまで経っても勝てないハルウララだが、橋口の前では単なる出走馬の一頭。彼は平等にその名を音波に乗せて観客に伝えた。

デビューから遂に60連敗を記録した2001年の12月31日。負け続ける小さな牝馬がマルチ競馬実況アナウンサーの琴線にふれた。

このまま行けば、この馬は高知のジッピーチッピーになるかも知れない。

アメリカで100連敗を記録したジッピーチッピーという馬は、負け続けてもレースに挑み続ける姿が大衆の人気を奪い、ヒーローとなった馬だった。

負け続ける馬がヒーローに。この本末顛倒な事象が、ハルウララ、そして高知競馬を全国区へと導いていく。

その導火線に火を点けた橋口は、地元の新聞社に彼女の事を紹介した。ブン屋の勘からネタになると察した高知新聞の石井研が取材を行い、2003年6月13日の同紙夕刊に「一回くらい勝とうな。」という記事が掲載された。

連敗ホースをひけらかすというのは、競馬施行者からすると、普通は歓迎されるものではない。しかし、明日競馬場が潰れても不思議ではない、というくらいにまで追い込まれていた当時の高知競馬は「何でもいいから人目を惹く事を」と願い、ウララを全国のマスメディアに売り出す事を許可した。

不思議な方向へ車輪は進み出す。それも猛烈な勢いで。

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高知新聞を皮切りに、全国紙の毎日新聞、更には全国ネットで放送されるワイドショー番組でも、ハルウララが紹介された。

負け続けても走るお馬さんがいる。

リストラの波に怯える社会人達のハートを掴んだハルウララは「負け組の星」という、あまり嬉しくない愛称を付けられるまでになった。競馬自体の概念を覆しただけでなく、彼女は馬券という文化の常識もぶち壊した。

馬達の勝ち負け同様、我々が握る馬券という紙切れも、一つ選択を誤ればただの紙屑、いわゆるハズレ馬券というモノに変化する。ハルウララの馬券は、左右上下、東西南北どこから見てもハズレ馬券である。この「当たらない」という事実が切り取られ、彼女の単勝馬券は交通安全の御守りに変化した。

日を追うごとに加熱するハルウララブーム。その渦中のど真ん中にいる彼女は、相変わらず勝てない日々を送っていた。負けが続けば続くほど、周りはヒートアップしていく。管理する宗石の知人達は、師に対し「勝ったらダメ」という無茶苦茶な注文を付けた。勝たなければ死ぬ、という厳しいサラブレッドの世界にもかかわらず…。ウララが唯一、心を許していた厩務員の藤原は、レースに勝っている馬を差し置いて、人気者になる事に複雑な心境を抱いていた。

「僕は勝って欲しいです。一度でいいから。」と藤原。この言葉を知り、彼は真のホースマンだと、私は思った。

悩ましい状況の中、2003年12月14日を迎える。ここまで白星を挙げることなく、ハルウララは、デビュー100戦目に挑んだ。この日、高知競馬場には5000人の観衆が詰めかけた。実に4年振りの大盛況である。単勝馬券も飛ぶ様に売れた。この中に果たして何人、ハルウララの勝ちを信じて購入した者がいただろうか?

古川文貴を背にハルウララは走った。そして負けた。10頭立ての9着。ブービーだった。

デビューから100連敗した馬に、競馬場から感謝状とニンジンで出来たレイが贈呈された。もうここまでくれば、何が正しくて何が間違いなのか分からない。レース後、宗石は「まっこと、またかった(本当に、弱かった)」と語り、競走馬として一生懸命走る姿は讃えるが、プロの目から見れば、魅力は何もないとコメントしたという。

捻じ曲がった真理は複雑な螺旋を形成し、更に捻れていく。デビューから106戦目を迎えた2004年3月22日。ハルウララの手綱を武豊に託すというプランが実現した。

競馬を知らずとも、その名を知られている男、武豊。稀代の名手ならばハルウララを勝たせることが出来るかもしれない。騒がしいマスコミは、この挑戦にハイエナのように群がった。

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武は、自身が書いたコラムをまとめた著書「この馬に聞いた」の中で、当時の心境を吐露している。

「競馬の本質から離れた騒ぎには、戸惑いを通り越して怒りさえ覚えていました。」

藤原や宗石同様、武も競馬のプロである。しかし、依頼を受ければ鞭一本持って馬に乗るのがジョッキー。薄桃色の勝負服を纏い、武はハルウララとレースに挑んだ。

泥濘むダートへ、11頭の馬達が飛び出した。中西達也のファストバウンスが内から主導権を握り、上田将司とレディサバンナ、そしてハルウララの背中を最も知る古川文貴とシルクコンバットが続いた。

ハルウララはスタートでわずかに遅れ中団から。武は前を狙って必死に促したが、彼女は進んで行かなかった。

向正面、快調に飛ばすファストバウンスの後方で、泥塗れになった薄桃色の勝負服は、早くもズルズルと後退し始めていた。3〜4コーナを迎えた時は最後方集団まで下がり、結果は10着。競馬はそんなに甘くない。

天才とのコンタクトを終えたウララは、5月23日、6月13日と2戦連続で馬券圏内に入った。ひょっとしたら…と小さな希望が生まれかけたが、これが最後だった。

ラストランは2004年8月3日。最後は妹のミツイシフラワー、弟のオノゾミドオリと一緒に走った。重賞でも何でもない普通の条件戦だったが、このレースは全国の地方競馬場で発売され、約7900万円の売り上げを記録した。

結果は園田に所属していた弟、オノゾミドオリが勝利。姉は5着、妹は8着に敗れた。

通算113戦0勝。

14万6500m走っても、勝ち星を掴むことが出来なかったハルウララは今、千葉の牧場で静かに暮らしているという。現役晩年には、一部の人間による身勝手な騒動に巻き込まれたので、この先の余生は、どうか穏やかに送って欲しいと心から願う。

ハルウララブームが去った現在の高知競馬場は、ナイター競馬開催、馬券のネット販売により、また息を吹き返した。赤岡修次、先のWAJSで3位に入賞した永森大智や女性ジョッキーの頂点を狙う別府真衣など、腕達者なジョッキー達が、カクテル光線に照らされながら競い合う光景は、まだしばらく見られそうである。

私は、一昨年、その高知競馬場へ打ちに行った。土佐まで行っても、馬券の下手さは相変わらずで、成果は丸坊主だった。ガックリと項垂れ競馬場を去る時、ふと振り返るとハルウララがいた。

「高知競馬場 ハルウララ号」

名前入りで壁に描かれたウララは、色が剥げ、ヒビ割れが激しい状態だった。この寂れた壁画から、あの日のブームを想起することは出来なかった。

「真実はもとから存在している。偽物は誰かが作らなければ存在しない。」と、フランスの画家ジョルジュ・ブラックは言った。

負け続けて歴史に名を残す名馬になったこと、無価値なハズレ馬券がお守りになったこと…彼女の周りに創られた世界は、競馬の原則から見ると、全て誰かが創り上げたニセモノである。

しかし、壁画が朽ち果て、人々の記憶からあの狂乱の時が消えても、全身全霊をかけて、高知の馬場に刻んだ蹄跡の記憶が消えることはない。

真実からかけ離れてたニセモノの世界でも、ハルウララはハルウララだ。