【追憶の名馬面】シーザリオ
2004年、栗東の角居勝彦厩舎に仲間入りし。12月15日の阪神競馬場でデビューし、見事に初陣を飾った。しかし、この当時は、そこまで騒がれる様な馬では無かった。
その名が競馬界にジワリと知れ渡ったのは、年が明けた2005年1月9日。中山で行われた、寒竹賞という500万下のレースだった。(寒竹賞を外した。カンチクショー!…往年のシャレやねぇ)
後にトップクラスのサラブレッドになる、アドマイヤフジやダンスインザモアらをここで一蹴。才気溢れる走りと、スペシャルの娘。という要素が、ファンの心を奪った。
私がシーザリオの存在を知ったのはこのレースの後に出走した重賞フラワーCだった。追い出されると弾む様に伸びて2馬身半差の快勝。やや幼い一面が残ってはいたものの、春のヒロインになる才能を確かに感じさせる走りだった。
兎に角、カッコいい。そして走れば強い。あっという間に惚れ込み、ファンになった。
このシーザリオの手綱を握っていたのは、福永祐一。
馬に乗れば記録を更新する武豊という巨人に、若手グループの旗頭として挑み続けていた彼はこの年、GⅠ開幕戦のフェブラリーSをメイショウボーラーと制し、春はモテ男だった。シーザリオの他に、ラインクラフトというお手馬が彼の元にいた。2歳時から素質の高さを認められていた才女である。シーザリオが重賞初制覇を達成する一週前に、彼女はトライアルのフィリーズレビューを快勝し、桜花賞の有力候補に挙げられていた。
どちらも手放したくない。という贅沢で悩ましい状況のまま、福永は桜花賞の日を迎える。
65回目の桜の舞台で、悩める若者が選んだパートナーは、先に約束を交わしていたラインクラフトだった。シーザリオの鞍上には、公営愛知の名手、吉田稔が騎乗する事になった。
当時は、スペシャルの子がGⅠで主役を張る!という事に騒いでいただけだったが、今、改めてこの時の福永を見て、私は、あの馬を思い出してしまった。シーザリオの父、スペシャルウィークの同級生で、若き日の福永に、初めてダービーの舞台を経験させ、頭の中を真っ白にさせたアイツ。古馬になり、柴田善臣騎乗で2000年の高松宮記念を勝ったエメラルドグリーンのアイツを、福永はディヴァインライトの上から見ていた。
「一番いて欲しくない馬が前にいた。」
私はジョッキーでも何でもないが、この宮記念で福永祐一が味わった悔しさは、何となく分かる。
似た様な現象、と言えば彼に怒られるかもしれないけど、この様なシーンは馬の上だけでなく、普通に生活していても結構な確率で遭遇する。そして、それを糧に奮起するか、それとも拗ねて腐るかで、その後の道が決まると思う。
私は後者の道を選び、今のところ腐った性格で日々過ごしているが、福永は腐らなかった。懸命に腕を磨き続け、トップクラスの更に上の位置まで登り詰めたのだ。
そんな彼に再び与えられた試練。クリア条件は、ラインクラフトで桜花賞を勝つ。の一択しかない。
一方、この物語のヒロイン、シーザリオは、この桜花賞が初の大舞台。彼女もまた、歴史に名を残すために、この桜花賞を勝たなくてはならない。鞍上の吉田も、自慢の卓越した騎乗センスを、大舞台で見せつけてやる、と燃え上がったことだろう。
一時的に、袂を分かった一人の名手と、一頭の少女の桜花賞が始まった。