【追憶の名馬面】シーザリオ

3歳、それも牝馬がクラシックを走り終えた春に海外遠征。一昔前、日本競馬界が「名馬の墓場」と馬鹿にされていた時代には考えられない出来事である。

その先人、先馬達が、道を切り開いた結果、彼女が現役時代を過ごした時分の日本競馬は、既に海外諸国に確と認められた競馬先進国に成長していた。このアメリカンオークスも、前年、桜花賞を制したダンスインザムードが挑戦している。なので、海外遠征について別段特別な感情を抱くシーンではないのだけれど、このシーザリオのアメリカ遠征は否が応でも胸が高まった。

スペシャルウィークの子供が海外チャレンジ!

99年。宝塚記念で宿敵に敗れ、海外遠征が泡沫の夢と消えた父。その無念の想いも乗せ、シーザリオは、2005年7月3日、アメリカの地に降り立った。

第4回アメリカンオークス招待S。ホームのアメリカから6頭、イギリス、イタリア、アイルランドの欧州グループから5頭、そして日本からのシーザリオを加えた12頭の少女達がハリウッドのグリーンカーペットの上に立った。

この中に、イスラコジーンとシンハリーズ(共にアメリカ馬)という馬がいた。後にシーザリオと共に、日本で優駿の母となる馬達がいたというのは何か不思議な縁を感じてしまう。

我らがシーザリオは、地元アメリカのメリョールアインダに次ぐ2番人気。日本競馬をトップクラスへ押し上げたサンデーサイレンスをはじめ、数えればキリがないくらいの名馬を生み出したアメリカという国で「この馬は勝つかも知れない…いや、マジで…。」と、高く評価されたのは、誇るべき事実だと思う。

爺ちゃんが生まれた国で、日の丸を掲げる。青毛のヤマトナデシコは、眩しいカリフォルニアの空の下へ飛び出した。

内からザッツワットアイミーン、イスラコジーンが主導権を争う。福永はその後ろにシーザリオを導いた。1角から2角を抜けると、イスラコジーンがマイペースの独り旅。ナカタニを背に、3~4馬身ほどリードを保ち、羨ましさすら感じさせる気持ちの良い逃げっぷりを披露した。

1馬身差ほどの間隔を保ち前を行く3頭。以下は一団といった隊列でレースは進む。この穏やかな時に、終止符をうったのは我らがシーザリオ。先に動いたザッツワットの勢いを軽く凌駕し、3角前で先頭に立った。ジャパンのフィリーの勇ましい進軍を見た、アメリカのウマキチ達から歓声が上がる。

4角から直線。シーザリオと福永祐一のショータイムが始まった。日本で走っていた姿と全く同じ、追えば追うほど弾むように伸びる。最高潮に達した場内の盛り上がりは、マイクロフォン前で実況するアナウンサーにも伝播する。

日本の凄い馬だ!シーザリオ!!

熱過ぎる名実況とナイスなファンの歓声に応え、青毛のヤマトナデシコは、頂点に立った。果敢に挑んでいったシンハリーズは3着、共に先団でレースを作ったイスラコジーンは9着。この馬達から可能性を感じとった社台グループの感度には、毎度ながら脱帽する。

日米オークス馬、という誉れ高いサラブレッドになったシーザリオ。しかし、世の中、良いことばかりではない。このレース中、彼女は系靭帯炎を発症していたのだ。負傷しながらあのパフォーマンスを見せるとは…。改めてこの馬の才能に驚かされる。

帰国後はレースに出ることなく療養生活を送ることになった。一度は治り、復帰を目指して鍛錬を重ねたが、再び同じ病を患い、2006年4月19日、競走馬生活に別れを告げた。

故郷のノーザンファームで母になったシーザリオは、2010年、シンボリクリスエスとの間に男の子を授かった。自身の手綱も取った福永祐一に導かれ2013年の菊花賞を制覇、古馬になってからはベルギーのやんちゃ坊主クリストフ・スミヨンとコンビを組み、ジャパンカップのタイトルも手に入れた。

時は流れ2017年、熱狂と歓喜に包まれたハリウッド・パーク競馬場は、もうそこに存在しない。しかし、シーザリオの姿を見て、日本の競馬にハマった、アメリカンなウマキチ野郎はいると思う。

そこで私は、一つの夢を抱いた。

ハリウッドのウマキチ達と、ハリウッドサインに向かってあのセリフを叫ぶ。手にはバドワイザー、或いは土産で、日本の名酒、ワンカップ大関を振舞ってやるのも良いだろう。

「Japanese Super Star!! Cesario!!!!!」

素晴らしいサラブレッドが存在した時間を共有出来れば、国も言葉も関係ない。