【追憶の名馬面】負け続けのヒロイン、ハルウララ
1996年、北海道の三石で産まれたハルウララは、所有してくれるオーナーに出会うためセリ市へ出た。しかし、買い手は誰一人現れることはなかった。主取りとなってしまったウララは生産者である信田牧場が自ら所有する形で高知競馬の宗石厩舎に預けられた。
デビューは1998年の11月。5頭立てのレースに挑み5着。ビリだった。その後も大体、月2走のペースでレースに挑んだが、ビリ、ブービー…と上位へ食い込むことは出来なかった。初めて馬券圏内に入ったのはデビュー7戦目の1999年2月27日。徳留康豊の騎乗で 8頭立てのレースに挑み3着に入った。
しかし、負けは負けである。この場合、3着に入ったというよりデビュー7連敗と言われる方が多いだろう。
一旦浮上を見せかけたものの、その後も再び凡走を繰り返した。同じく徳留の騎乗で、5月にもまた3着に入ったが、ウララに勝ち星は舞い込まない。春も夏も休みなく走り続け19戦目。今村賢治の手綱に導かれ、クビ差の2着に食い込んだ。1着とのタイム差は0.0秒。もう勝利はすぐそこまで来ている。
あと一踏ん張り…あと一踏ん張りすれば、待望の白星を手に出来る。
トップでウイニングポストを通過する瞬間を夢見てウララはまた進みだしたが、彼女が進むたびに白星は少しずつ離れていった。ついには3着も拾えない。それでも、彼女は競馬に挑み、小さな高知の馬場を疾走した。しかし、いつ出ても勝てない馬を、ファンは気に留めるはずもなく、ウララは独り連敗街道を寂しく走るだけだった。
そんな孤独な連敗ホースを、マイクロフォン前から一人の実況アナウンサーが見ていた。
橋口浩二。
ラジオのDJから競馬実況アナに転身した彼は、そのマルチな才能を駆使して高知競馬の盛り上げに奔走する一人だった。いつまで経っても勝てないハルウララだが、橋口の前では単なる出走馬の一頭。彼は平等にその名を音波に乗せて観客に伝えた。
デビューから遂に60連敗を記録した2001年の12月31日。負け続ける小さな牝馬がマルチ競馬実況アナウンサーの琴線にふれた。
このまま行けば、この馬は高知のジッピーチッピーになるかも知れない。
アメリカで100連敗を記録したジッピーチッピーという馬は、負け続けてもレースに挑み続ける姿が大衆の人気を奪い、ヒーローとなった馬だった。
負け続ける馬がヒーローに。この本末顛倒な事象が、ハルウララ、そして高知競馬を全国区へと導いていく。
その導火線に火を点けた橋口は、地元の新聞社に彼女の事を紹介した。ブン屋の勘からネタになると察した高知新聞の石井研が取材を行い、2003年6月13日の同紙夕刊に「一回くらい勝とうな。」という記事が掲載された。
連敗ホースをひけらかすというのは、競馬施行者からすると、普通は歓迎されるものではない。しかし、明日競馬場が潰れても不思議ではない、というくらいにまで追い込まれていた当時の高知競馬は「何でもいいから人目を惹く事を」と願い、ウララを全国のマスメディアに売り出す事を許可した。
不思議な方向へ車輪は進み出す。それも猛烈な勢いで。