【追憶の名馬面】負け続けのヒロイン、ハルウララ
高知新聞を皮切りに、全国紙の毎日新聞、更には全国ネットで放送されるワイドショー番組でも、ハルウララが紹介された。
負け続けても走るお馬さんがいる。
リストラの波に怯える社会人達のハートを掴んだハルウララは「負け組の星」という、あまり嬉しくない愛称を付けられるまでになった。競馬自体の概念を覆しただけでなく、彼女は馬券という文化の常識もぶち壊した。
馬達の勝ち負け同様、我々が握る馬券という紙切れも、一つ選択を誤ればただの紙屑、いわゆるハズレ馬券というモノに変化する。ハルウララの馬券は、左右上下、東西南北どこから見てもハズレ馬券である。この「当たらない」という事実が切り取られ、彼女の単勝馬券は交通安全の御守りに変化した。
日を追うごとに加熱するハルウララブーム。その渦中のど真ん中にいる彼女は、相変わらず勝てない日々を送っていた。負けが続けば続くほど、周りはヒートアップしていく。管理する宗石の知人達は、師に対し「勝ったらダメ」という無茶苦茶な注文を付けた。勝たなければ死ぬ、という厳しいサラブレッドの世界にもかかわらず…。ウララが唯一、心を許していた厩務員の藤原は、レースに勝っている馬を差し置いて、人気者になる事に複雑な心境を抱いていた。
「僕は勝って欲しいです。一度でいいから。」と藤原。この言葉を知り、彼は真のホースマンだと、私は思った。
悩ましい状況の中、2003年12月14日を迎える。ここまで白星を挙げることなく、ハルウララは、デビュー100戦目に挑んだ。この日、高知競馬場には5000人の観衆が詰めかけた。実に4年振りの大盛況である。単勝馬券も飛ぶ様に売れた。この中に果たして何人、ハルウララの勝ちを信じて購入した者がいただろうか?
古川文貴を背にハルウララは走った。そして負けた。10頭立ての9着。ブービーだった。
デビューから100連敗した馬に、競馬場から感謝状とニンジンで出来たレイが贈呈された。もうここまでくれば、何が正しくて何が間違いなのか分からない。レース後、宗石は「まっこと、またかった(本当に、弱かった)」と語り、競走馬として一生懸命走る姿は讃えるが、プロの目から見れば、魅力は何もないとコメントしたという。
捻じ曲がった真理は複雑な螺旋を形成し、更に捻れていく。デビューから106戦目を迎えた2004年3月22日。ハルウララの手綱を武豊に託すというプランが実現した。
競馬を知らずとも、その名を知られている男、武豊。稀代の名手ならばハルウララを勝たせることが出来るかもしれない。騒がしいマスコミは、この挑戦にハイエナのように群がった。