【追憶の名馬面】負け続けのヒロイン、ハルウララ
武は、自身が書いたコラムをまとめた著書「この馬に聞いた」の中で、当時の心境を吐露している。
「競馬の本質から離れた騒ぎには、戸惑いを通り越して怒りさえ覚えていました。」
藤原や宗石同様、武も競馬のプロである。しかし、依頼を受ければ鞭一本持って馬に乗るのがジョッキー。薄桃色の勝負服を纏い、武はハルウララとレースに挑んだ。
泥濘むダートへ、11頭の馬達が飛び出した。中西達也のファストバウンスが内から主導権を握り、上田将司とレディサバンナ、そしてハルウララの背中を最も知る古川文貴とシルクコンバットが続いた。
ハルウララはスタートでわずかに遅れ中団から。武は前を狙って必死に促したが、彼女は進んで行かなかった。
向正面、快調に飛ばすファストバウンスの後方で、泥塗れになった薄桃色の勝負服は、早くもズルズルと後退し始めていた。3〜4コーナを迎えた時は最後方集団まで下がり、結果は10着。競馬はそんなに甘くない。
天才とのコンタクトを終えたウララは、5月23日、6月13日と2戦連続で馬券圏内に入った。ひょっとしたら…と小さな希望が生まれかけたが、これが最後だった。
ラストランは2004年8月3日。最後は妹のミツイシフラワー、弟のオノゾミドオリと一緒に走った。重賞でも何でもない普通の条件戦だったが、このレースは全国の地方競馬場で発売され、約7900万円の売り上げを記録した。
結果は園田に所属していた弟、オノゾミドオリが勝利。姉は5着、妹は8着に敗れた。
通算113戦0勝。
14万6500m走っても、勝ち星を掴むことが出来なかったハルウララは今、千葉の牧場で静かに暮らしているという。現役晩年には、一部の人間による身勝手な騒動に巻き込まれたので、この先の余生は、どうか穏やかに送って欲しいと心から願う。
ハルウララブームが去った現在の高知競馬場は、ナイター競馬開催、馬券のネット販売により、また息を吹き返した。赤岡修次、先のWAJSで3位に入賞した永森大智や女性ジョッキーの頂点を狙う別府真衣など、腕達者なジョッキー達が、カクテル光線に照らされながら競い合う光景は、まだしばらく見られそうである。
私は、一昨年、その高知競馬場へ打ちに行った。土佐まで行っても、馬券の下手さは相変わらずで、成果は丸坊主だった。ガックリと項垂れ競馬場を去る時、ふと振り返るとハルウララがいた。
「高知競馬場 ハルウララ号」
名前入りで壁に描かれたウララは、色が剥げ、ヒビ割れが激しい状態だった。この寂れた壁画から、あの日のブームを想起することは出来なかった。
「真実はもとから存在している。偽物は誰かが作らなければ存在しない。」と、フランスの画家ジョルジュ・ブラックは言った。
負け続けて歴史に名を残す名馬になったこと、無価値なハズレ馬券がお守りになったこと…彼女の周りに創られた世界は、競馬の原則から見ると、全て誰かが創り上げたニセモノである。
しかし、壁画が朽ち果て、人々の記憶からあの狂乱の時が消えても、全身全霊をかけて、高知の馬場に刻んだ蹄跡の記憶が消えることはない。
真実からかけ離れてたニセモノの世界でも、ハルウララはハルウララだ。