【追憶の名馬面】ベガ
今日は、七夕の願いを叶える星の名を与えられた、名牝の足跡を振り返ってみよう。
ベガは、1992年、栗東松田博資厩舎に入厩した。吉田勝己に「母の馬だから好きにやっていい」と、指令を受け取った松田は、不安点である脚の様子を見ながらジックリ調整した。この部分に、松田が、ベガに何か可能性を感じていた、ということが読み取れる。ジックリ丹念にやれば…。松田厩舎は、彼女の活躍を短冊に書いたのだ。
デビューを迎えたのは1993年の1月、京都競馬場。同期に遅れてようやくターフに立ったベガは橋本美純鞍上で挑むも2馬身半差の2着。しかし、一度しか時計を出していない状況で、ここまで走った彼女を見て、陣営は俄かに活気付いた。期待100%の2戦目も橋本が手綱を取る予定だったが、調教に遅刻したことに対し松田が激怒。彼を降板させ武豊に騎乗を依頼した。
ベガに彦星が現れた瞬間である。任せられた彦星は、キッチリ彼女を導き、初勝利をプレゼント。引き上げてきた武は、松田に「この馬はオークスを勝ちますよ」と語ったという。
脚が曲がり、どうしようもなかったサラブレッドが、クラシックを勝つかも…。星に願いを、なんて馬鹿げてらぁ、と荒むもんじゃない。
彦星と出会った織姫星は桜花賞トライアル・チューリップ賞へ挑んだ。3歳女王スエヒロジョウオーを差し置いて、ベガは一番人気に推された。4角で先頭に立つと、そのまま突き放し3馬身差で圧勝。頭上に輝く七夕の星は、まだ離れているが、地上にいる星は、輝きを増し栄光へ急接近し始めた。桜咲く仁川で夢は叶うか?
1993年4月11日。第53回桜花賞競走。向こう正面に植わる桜花がこの時を狙って咲き誇る。世界で一番華やかな大レースの舞台にベガはいた。
その頃、吉田善哉は病と闘っていた。日本競馬界を根底から変えた名ホースマンも、老いと病には敵わず、生産馬の花舞台を、彼は冷たい病床で見守ることになった。
花弁が舞う様に18頭の少女たちが飛び出した。大方の予想通り、内目の好枠を引いたヤマヒサローレルと猿橋がスーッとハナに立とうとした。しかし、それを外から制したのはマザートウショウと、東の若きホープ横山典弘。ベガは、好スタートを決め、その2頭のスグ後ろに付けた。
前を見ながら進める絶好位。単勝2.0倍の圧倒的支持を受けても、背中の彦星に動揺はなかった。ただ、若手の武よりも、キャリアが豊富で、数多の栄光を手にしてきた猛者たちは、そんなに甘くない。ベガの後ろには、水沢のベッピン少女、ユキノビジンと安田富男、二冠牝馬の愛娘、マックスジョリーと柴田政人が、ピタリとマークしていた。
4コーナー前で、逃げられなかったヤマヒサローレルが脱落すると、ベガは浮上を開始。それを目掛けてマックスジョリーが、いい手応えで迫ってきた。
直線、まだ内で踏ん張るマザートウショウを、男勝りの力強さで交わすと、仁川の桜舞台は、ベガの独壇場となった。
一番後に動いたユキノビジンが、坂上で一気に迫ってきたが、彼女には関係なく、六甲山麗から緩やかに吹く春風に迎えられて、桜の女王に君臨した。
夢が一つ叶った。誰もが憧れるクラシックの冠を、ベガは頭上に戴いた。次は、更に輝きを増すであろう府中の2400mで行われるオークス。新たな夢へ、期待は膨らむばかりだった。
また馬に助けられたな…。
病床で見守った吉田善哉は、危篤状態から脱し、こう呟いたという。馬という生き物は、この世に誕生して以来、人に尽くし続けてきた生き物である。常に自分達を人生の中心に据え、手を焼いてくれた男に、彼女はお返しをしたのだろうか。私は、彼の馬一筋な足跡を見ると、こんなお伽話みたいなことも、戯言ではない気がする。