競馬界の新しい波!女性騎手たちの活躍に秘められた歴史

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日本では公営競技のひとつとしてファンから愛されている競馬。オグリキャップやナリタブライアン、ディープインパクトなど、日本競馬史に燦然と名を残す名馬たちがいます。そしてそんな名馬たちに騎乗し、共に戦い、数々のドラマを残してきたのが騎手たちです。インターネット技術の発達にともない、オンラインでも国内外問わずに競馬のレースを楽しめるようになりました。オンラインなら、競馬のオッズや情報も、いち早く知れるのも便利で有難いですよね。騎手たちの活躍は、そのまま競馬界の人気に直結していると言っても過言でないぐらいです。そんな競馬界を盛り上げる活躍を見せて注目を集めている中には女性騎手たちの存在もあります。ここでは、そんな女性騎手たちの先駆者となった一人の女性と、彼女が夢見たような活躍を見せる現代の女性騎手たちについて見ていきたいと思います。

馬好きの少女

近代競馬がはじめて日本にもたらされたのは、1862年に行われた横浜居留地の居留外国人のレクリエーションだったと言われています。それから現在にいたるまで、日本人にとっては人気のスポーツであり続けているわけですが、当時の日本では当然ながら馬には男性が乗るものとの考え方が一般的でした。それは競馬においても同じだったのですが、昭和の初めころ、その慣習に立ち向かった一人の女性がいました。それがのちに日本のみならず、世界初の女性騎手として名を残すことになる斎藤澄子です。馬喰であった父のもとに生まれた澄子は、子供の頃から馬とともに育ち、どんな荒馬でも手なずけることができる才能を持っていたと言われています。やがて澄子は仕事で訪れた盛岡で競馬と出会います。そこで美しい駿馬たちにまたがる騎手の姿を目の当たりにした澄子が、自らもそうなりたいと思うまでに時間はかかりませんでした。騎手学校などがなかった当時、騎手になるためには調教師の下に弟子入りする必要がありました。女性であることを完全に隠して学ばなければならなかった澄子ですが、もとより才能のあった彼女は周囲も驚くスピードの速さで上達していきます。

世界初の女性騎手誕生

そして1934年、21歳のときに、東京競馬場での騎手試験に初めてチャレンジ出来ることになります。ところが、学科も実技試験も抜群の成績をおさめたのにもかかわらず、結果は不合格。帝国競馬協会が伝えた理由は「風紀上の問題を起こす恐れがある」という理不尽なものでした。

しかし澄子はあきらめません。師匠の取り計らいもあり、京都競馬場へ場所をかけて再挑戦した1936年、ついに澄子は騎手試験に合格します。こうして、澄子には日本初、世界初の女性騎手として、華々しくレースにデビューする未来が待っているはずでした。しかしデビュー戦を控えたある日、農林省から正式に女性の競馬参加を禁止する通達が届いたのです。翌年には「騎手にありては満19歳以上の男子にして、義務教育を修了したる者とすることを要す」と規制ができます。これにより澄子は一度もレースに出場することなく引退、その後も厩舎で馬とともに男性として働き続けたものの、身体を壊し、肺病により29歳の若さで亡くなってしまいます。

引き継がれる夢

澄子の死から約5年後、山形県上山競馬場において1947年に騎手免許を取得し騎乗した女性がいました。それが岩田富子騎手です。当時の上山競馬場では騎乗速歩競走が行われていた為、平地競争ではありませんが実際にレースに騎乗したのは記録上、岩田騎手が日本で初めてとされています。さらにそれから約10年後、1966年にはJRAが発行した騎手免許により、高橋クニ騎手が岩手競馬に初めて出場しました。その後、8年間で通算350勝、女性ジョッキーの存在を広め、益田競馬のスターとも呼ばれた吉岡牧子騎手や、日本の女性騎手として史上初の初騎乗初勝利を達成した神野治美騎手、アイドル的なルックスで人気のあった小田部雪騎手などが活躍します。そして2016年には日本中央競馬会(JRA)から藤田菜々子騎手が誕生。藤田騎手は、16年3月の川崎競馬でのデビューに始まり、これまで中央157勝、地方24勝の活躍を見せています。また、2022年に騎手デビューを果たした今村聖奈騎手は、女性騎手によるデビュー年の最多勝利数を22年ぶりに更新するなど、ここ数年の女性若手騎手たちの活躍は目覚ましいものがあります。

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