【追憶の名馬面】オグリキャップ

北から南までオグリオグリな状態は、競馬界に大きな恩恵をもたらした。バブル景気も相まって、中央公営問わず、競馬界の売り上げは青天井で推移し、馬産地では活発な売買が繰り広げられた。現代競馬の絶頂期は、この時期だった、と私は考えている。もし、ブームと景気が急降下せず、細く長く推移していれば、今頃、日本には何カ所、競馬場があっただろうか?と思うと、少し寂しくなる。

話をオグリに戻そう。陣営は、宝塚記念を勝ってアメリカへ遠征するプランを披露した。

笠松から中央、そして世界へ。このマンガみたいなサクセスストーリーを誰もが実現すると信じていたが、オサイチジョージと丸山に、一世一代の逃走劇を喰らい2着。これまでは敗れても接戦だったが、この時の着差は、3馬身半差。完敗の二文字がのしかかる敗戦だった。

まさかの敗戦。ベタベタなウマキチなら、まぁ競馬やからね、と涙に暮れ、次の土曜日の1Rを何食わぬ顔で迎えられるけど、アイドルとしてオグリキャップを見ているた人々は、泣き叫び困惑した。

オグリが負けるなんて信じられない!

薄っぺらい知識で構成された怒りの矛を一身に浴びたのは、武豊を超える!と騒がれていた若手の岡潤一郎だった。

オグリ敗戦を見たマスコミは、手のひらを返したように、ジュンペーを非難した。これが後に、ジュンペーの闘志に火を点けるターニングポイントになるのだが、それはまた別の機会に…。

ジュンペーに火が灯った時、鞍下にいた芦毛の馬の闘志は、風前の灯火に変わってしまっていた。アメリカンドリームは夢の彼方へ消え、ややトーンダウンして迎えた秋。

ベテラン増沢末夫とコンビを組み、天皇賞秋、ジャパンカップを戦うも、惨敗。その走りは、別馬にでもなってしまたかの様な、悲しいものだった。

移ろいやすい大衆は「オグリは終わった」と、一人、また一人とオグリから離れていった。

失意の中、迎えた第35回有馬記念。オグリにとって、最後となるレースの手綱を任されたのは、武豊。二度目のコンタクトとなる天才がオグリを復活させるか?

物語は、巧拙問わずフィナーレに向かう頃が、一番盛り上がる。

しかし、万感の終結になるとは限らない。こと、競馬の物語は、誰も的確な結末を予想する事が出来ないもので、結末を演出する事が出来るのは、馬場を走る馬だけだ。

野芝が枯れ、まるで黄金の絨毯が敷かれたようなコースになった師走の中山。

ファンに選ばれた16頭の精鋭達が、空っ風を切り裂いて、一斉に馬場へ飛び出した。

各馬のドラマの集結へ