【追憶の名馬面】ペルーサ
その日、どうやって帰ったかハッキリと覚えていないが、今こうして下手くそな文章を書いているので、少なくとも生きて帰ったことは確かだ。ちなみに、この日以来、怖くて三連単を買っていない。毎度、本命の単複を握りしめ、石橋を叩きながら、いつも通り小さな馬券を買っている。
私が生きたか死んだか、なんてどうでもいい。ペルーサである。無敗でダービー制覇、という夢が叶わなかった彼の歯車は、ここから狂い始める。
出遅れ。
コンマ何秒の差を争う競馬において、出遅れというものは致命的である。ペルーサのエリート歯車は、この出遅れ癖によって、無茶苦茶になってしまった。
ダービー以降、馬場で競うライバル達、そしてゲートが彼の前に立ちはだかった。馬なり調教という概念を日本競馬界に確立し、数多の名馬を競馬場へ送り込んだ管理トレーナー藤沢和雄師が、手を替え品を替え、様々な方策を実行したがなかなか改善しない。しかし、ペルーサは例えスタートでヤラカシても、常に全力を出そうと必死に頑張っていた。この健気さに胸を打たれたファンは、いつしか彼に対し深い愛着を持つようになった。
強さから抱く好意ではなく、憐れみから抱く好意は、ペルーサからすれば屈辱的だったかも知れない。悶々とする状況下で久々にらしさを見せたのは、2011年の天皇賞秋。横山典弘に導かれた彼は、33.9の最速上がりを記録し3着に食い込んだ。
まともに走れば、やはりこの馬は強い。
針の穴くらいの大きさだったが、ペルーサに兆しが見え始めた。希望を持って挑んだジャパンカップ。人気は3番人気。私は、彼の単勝にありったけ注ぎ込んだ。しかし、結果は16着。最下位だった。
ダービーに続き、またしても膝から崩れ落とされた。ただ、そこに怒りの感情はなく、まあ仕方ないな…というものだった。知らず識らずの裡に、私も彼の熱狂的なファンになっていたようだ。
人も馬も、老いには勝てない。ダービー優勝候補と言われ輝いていた頃がセピア色の思い出に変わりつつあるペルーサに喘鳴症が襲いかかったのは、2012年の安田記念で18着に敗れた後だった。体にメスを入れられ、1年と8ヶ月、彼はターフから離れた。
無事に復帰し、戻ってきた競馬場には、かつて覇を競い合ったライバル達はもういなかった。ピサもフラッシュもダムールも…みんな競馬場を去り、父としての生活を始めていた。
最強世代のプライドを独り背負いレースへ挑むペルーサ。しかし、勝利の女神が彼に微笑むことはなかった。