【追憶の名馬面】ナリタブライアン
11月6日、第55回菊花賞。
泣こうが喚こうが、クラシック競走は生涯一度きり。夢は終わるか、それとも叶うか?雨空の下に、スタートを告げる金属音が鳴り響いた。
主導権を握ったのはスティールキャストと角田。番手にウインドフィールズと東が続く流れで1周目の坂を下る。ナリタブライアンはヤシマソブリンと坂井を見ながら中団馬群の番手、という絶好位に付けた。このまま静かに流れていくと思われた菊舞台。ここで当時、まだ若手だった角田が思い切った競馬をする。
2周目2角までに、後続との差を広げ、大逃げの戦法に持ち込んだのだ。菊のストーリーテラー、杉本清が、彼の母で1980年の第82回天皇賞秋を大逃げで制した、プリティキャストの名を叫び、その大逃げっぷりをマイクロフォン越しに伝えた。長距離戦で、人気薄の大逃げ馬ほど仕事をする馬はいない。もしや、もしやと様々な疑念が湧き上がり、スタンドからは響めきが起こった。
2周目の坂を下っても依然先頭はスティールキャスト。リードはまだタップリある。騒めくスタンドの声が、大歓声に変わったのは植え込みを回る直前だった。ご自慢の白いシャドーロールを、泥で真っ黒にしたナリタブライアンが、マイポジションの大外から進撃を開始。先に抜けたのはヤシマソブリン。ウインドフィールズがそれに続いて、抜け出そうとした時、赤い帽子、桃、紫山形一文字の勝負服、“黒い”シャドーロールが、彼らを捕らえた。
杉本が叫ぶ。
弟は大丈夫だ!弟は大丈夫だ!
この菊花賞の1週間前に行われた天皇賞秋で、ブライアンの兄、ビワハヤヒデは屈腱炎を発症し、ターフを去っていた。ビワハヤヒデが勝った宝塚記念で、兄貴も強い!という実況をしていた彼は、パシフィカス兄弟の対決を誰よりも待ち望み、その実況をしたかった。と語っている。
兄も愛した名実況アナの叫び、スタンドを埋め尽くしたファンの声援に押されたナリタブライアンは、7馬身差を付けて、菊の大輪を頭上に戴いた。
1994年11月6日、15時38分。シンボリルドルフ以来、10年振り。日本競馬界に5代目の三冠馬が誕生した。
随分、昔の記憶なので、定かではないが、ナリタブライアン引退後、刊行された彼の功績をまとめた雑誌に、馬産地ライターの村本浩平氏が、一つの言葉を贈っていた。
僕らの時代の三冠馬。
僕らという短いフレーズは、完全なる大衆レジャーへと進化した平成の競馬像を見事に表現していると思う。オーナー、生産者、調教師、厩務員、騎手、そしてファンの存在が盛り込まれたこの言葉が私は好きだ。氏に許可を得た訳ではないが、今でも競馬を知り始めた方に、ナリタブライアンを教えてあげる時、この言葉を使わせていただく時がある。