【追憶の名馬面】キンツェム
時は1874年。日本が天下泰平の明治の世になって7年目を迎えたこの年に、遠く離れたハンガリーでキンツェムは産まれた。
父は英クラシック戦線で活躍し、ジュライSという6Fの重賞などを制したカンバスカン。母は地元の1000ギニー(日本でいう桜花賞)を制したハンガリー産まれのウォーターニンフ。その母系は、オークス5着のザマーメイドなど英国の血がシッカリと受け継がれた由緒ある血統だった。
新政府に不満を持つ士族達が江藤新平らをリーダーに巻き起こした佐賀の乱があった年、彼の地ではもうオークスやstakesといった今日でも馴染みのある競馬用語が使われている。サラブレッドの能力が向上し競馬先進国のグループに入っている日本だが、この様な歴史を知ると世界との間には競馬が続く限り永遠に埋まらない溝がある、という事を痛感させられる。
キンツェムを生産したエルストン・フォン・ブラスコヴィッチというホースマンは、自分が生産した馬達を一人の買い手に一括して売却する経営方針を採っていた。1875年、キンツェムを含む7頭の1歳馬達は、とある貴族に売却される話がまとまっていた。ところがこの貴族さんは、キンツェムともう一頭の牝馬の引き取りを拒否。彼の相馬眼で見たところ、キンツェムは線が細く、毛色も暗い栗毛で、走る資質がないという酷い評価だった。
引き取り手が現れないのなら仕方がない。ブラスコヴィッチ自らがオーナーとして所有することになった。この貴族さんが酷評を下す一方で、キンツェムに惚れてしまった人もいた。
キンツェムは1歳になったばかりの頃、誘拐事件に巻き込まれる経験をした。キンツェムを連れ去った犯人は、「もっと良い馬がいたのになぜこの馬を?」というポリスの取り調べに対し、こう答えている。
「見てくれが良くないからこそ、体力、能力、勇気に優れているのだ。」
富のものさしで、先の貴族と比べると、この犯人は相手にもされない人物かもしれないが、物の本質を見抜く力で比べるとこの犯人氏の方が数段上だろう。目から入る情報は鵜呑みにしてはならない。必ず脳ミソで編集し、答えを出さなければ何も見えなくなってしまう。罪人を褒めるのもどうかと思うが、実に天晴れな目を持った誘拐犯である。